下町の顔 | FACE |
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2.ただひたすら仕事人間 ★私はあられ、おせんべいというと、土産物品のイメージもあるのですが、ここは国技館も近いですよね。そういった人の流れはどうですか? ここまではいらっしゃらないですね。ですから私どもではお土産品にとらわれないで、販売チャンネルをいくつか分けています。地元の人にご愛顧いただける両国本店の他、百貨店、通信販売、テーマパークや航空機機内食への提供なども行っております。全日空機内食へ提供する商品などは7つの味を一つの袋に入れています。どれか好きなものが選べるようにとね。 ★7つの味とは面白いですね。それはどういったことですか? はい。ひとつの袋に七つの味を入れることを考えたのは私どもで、それまではおせんべい1枚の提供だったようですね。それでお客様は色々な味が入っているのでこれは美味しいとなる訳です。その後、全日空に搭乗されたお客様から売って欲しいというお問合わせをいただきまして、それに応対をする形でデザインを変えて「東一幅」という名前を作って店頭でも売り出しました。 これを契機に、お客様にDMを差し上げる通信販売システムも整いました。今では20数万人の固定客になっています。
すんなりではないです。いろいろ考えて。固いとか辛いとか、嫌いなものが入っていたら旅の雰囲気もこわれますよね。7つの味があれば、どれかは楽しんでいただける。また全部の味をすべて楽しんでいただける場合もありますよね。 あまり音がしない、割る必要がない、匂わない……狭い機内で味わっていただくために、そんなことなどもいろいろ考えました。 全日空さんへの食べ方提案がなければリピータも存在しなかったわけですから、良かったと思っています。そして、次の段階ではテーマパークへの提供には洋風な味付けということを考えました。 寝ても覚めても仕事のことばかり。仕事人間ですね。 ★最初は製造のみで無店舗だったそうですね。 そうです。明治43年の創業時から昭和30年代までは製造主体でした。その後、西武さん、そごうさんの百貨店での販売を始めましたが、この両国には店はなくて、ここには工場があったんです。 ★何故工房ショップを作ろうと思ったのですか? ここに工場があったときも、ここで売っているということは皆さん知っていたんです。付随して小さいお店にもなっていたんで。お客さんが呼び出せるようになっていて、奥から事務員がお店に出て来て売るという(笑)、そんな店だったんです。 昭和46年に工場を千葉県に移してそれから30年も経ちますと、地元の会社ではありますが本当に東あられで作っているのって訊かれるようになります。工場を見てもらうわけにも行かないですよね(笑)。 やはり、私どもは通販もあるにはありますが、テレビとかラジオで宣伝をするのではなく主に口コミですから、そのためには地元でご愛顧いただいている会社でないと長続きしないんです。そのためには本店はきちんとした店構えにしようということで揚げ餅を製造販売するショップを作ったんです。 そして、この北斎通りがマンション通りになってしまう心配から、地元に核になるお店をいろいろ作っていきたいという行政の応援も戴きまして、墨田区から工房ショップという名称で推薦して頂きました。 ★工房ショップ以外にも墨田区から接客で賞をもらっているそうですね。 はい。墨田区商店街コンクールで消費者賞と区長賞との両賞を貰いました。 ★物を作るために一所懸命の人というのは接客部分が弱点のような気がしますが、そこでも表彰されるというのはすごいですね。 私どもは百貨店でも商売をしておりまして、接客に大変苦労をしました。この両国本店では、対面販売よりお客様のとなりで説明をしてよく商品をご納得頂ける側面販売をしようということで試行錯誤したんです。でもやってきたことは間違いなかったと思いましたね。 ★そうですか。小林さん自身がやってこられたことが認められたということですね。 賞をいただけたことは、これからは恩返しとして考えなければいけないですね。墨田区の東あられとして恥じないお店になることが私どもの役目。 来年一月には菊川駅前店がオープンします。2006年は創立100年を迎えますので、地元にご愛顧いただくお返しを何かと考えているところでございます。 ★代々受け継がれて三代目ですよね。三代目の葛藤はありませんか? ないですね。ここで生まれ育って、小さい頃から職人さんと共に生活をしていましたから。
考えていることの結果がでることです。 大変幸せだと思っているのは、父の代の時に製造のみから製造直売へとお店を広げる努力をしてくれたことですね。昭和60年代の私のときになってお店がどこまでも広がるとは考えられませんでしたので、私は私で地域密着というまた違うチャンネルに挑戦をしています。 ★今後の夢は、なにかありますか? 私としては地元で会社と一体でいたいと思っています。ご飯を食べさせてもらえるのは東あられですから、お店に行くのが私の仕事。そしてこの北斎通りをもっと活性化させたいですね。それが夢です。 地元のお菓子屋さんとしてやれたら死ぬまでやりたい。 それからあられ産業は最寄品ですから、街中で500メートル間隔くらいであられ屋さんがもっとあったらいいですね(笑)。 3.都電を止めた子ども時代 ★ところで今の下町はどうですか?暮らし安いですか? この地域は電車の便もよくマンションが増えてきていますので、最近は下町という感覚が余りないですね。その中で『両国東あられ』という形を、昔からの下町を語れるような、そしてそれを受け継げるような会社にしていきたいですね。 ★小林さんの子供の頃ってどうでしたか? 家の前が公園でしたのでベーゴマ、凧揚げ、なんでもしましたよ。昔は近所に駄菓子屋さんがありましたから、いろいろなお菓子を買って食べました。学校の帰りにかき氷なんかもね。 悪いことは余りしなかったですね。都電を止めたことくらいかな(笑)。JRの土手でもトカゲなんか取ってよく遊びましたね。土手でよく取れましたから。でも進学校ルートだったからそのうち余り遊ばなくなりましたけど。 ★では最後に恒例の座右の銘を。 『練習は不可能を可能にする』、慶應の元塾長の小泉信三さんがテニスをやっていられたときの言葉ですね。私も柔道を今でもずっとやっていますから、練習という努力をすれば可能になるということが体験としてわかります。 ★企業の中でも、そういうことに気をつけられているということですね。 新しいことをやる時に明日は見えないといいますが、ある日突然何かが起きるということはありえない。日々練習ということは毎日考えるという事です。そうすれば必ず時期は訪れます。その中でどんなことを自分がやればいいのか考えればいいんじゃないでしょうか。 ★日々たゆまぬ努力をですね。どうもありがとうございました。 「ずっとせんべい屋のおやじでいたいです」、「墨田区のどこに行っても『東あられ』があるように地元を大切に」、「仕事人間です」、「努力をしていけばその方向に行くのが人生だと思っています」などなど。印象に残る言葉群でした。 笑顔で身振り手ぶり、立ったり座ったりこまめに動かれて、参考資料もどっさり用意してくださって、どんな話もアレレェと思っている間に商売の話にもって行かれて(笑)。仕事が楽しくて仕方がないという小林さんの思いでいっぱいの取材でした。 |
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※2004年11月収録 |
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