下町の顔 | FACE |
|||
|
第25回
|
|
||||||
あづま屋文具店 店主 分部 登志弘さん |
大江戸線・半蔵門線『清澄白河』の駅を下車して数分のところに、深川資料館通り商店街があります。ケヤキの大木が道の両側から生い茂って静かな雰囲気をかもしだしています。このケヤキ並木の奥には、ずっと向こうの現代美術館まで商店街が途切れることなく続いているのですが、それを想像できる人は意外と少ないようです。 この商店街に人々をどのように誘(いざな)うか。春には『花水木街角誰でもアーティスト』、秋には『かかしコンクール』と斬新な、けれども温かいアイディアを出して、商店街に何とか目を向けさせようと努力してきた方がいます。お訪ねします。 1.稲穂が揺れて ★かかしコンクールの話からお願いします。何年頃から始まったのですか? 平成10年からですね。 ★知名度がどんどんあがってきていますね。これまでにいろいろな逸話があったでしょうね。 前々回でしたか、『時の人』というテーマをつけたときに、『小泉首相かかし』をつくった人が10人いたんですよ。そのときに週刊誌が取り上げてくれて、グラビア2ページにわたって掲載になりました。そのときの表彰式に江東区長さんがお見えになって「小泉さんのはあるけど俺のは一つもない」って、ひがんでみせたわけ。そうしたら、参加者の中の年配の人が、「じゃ、私が作ります」って手をあげたんですね。そしたら翌年、区長そっくりのかかしが出来あがってきたんですね。あとでお訊きしたら91歳っておっしゃいましたが、すごいですよね。 それから、『大江戸線』というテーマだったときに、優先席とか車内の風景を作った人がいたの。かかしもつけてね。そこに通りがかりのおじさんが座って、またまた、通りがかりのカメラマンがそれを撮って、そんでもってその写真は他所でやった写真コンクールに出されて優秀賞を貰ったんですよ。そうしたら都営地下鉄の関係者の人がきて、「その作品でTカードを作りたい」って申し出になって。そのおじさんを探すのに朝日新聞が尋ね人の記事を掲載したの。翌日に「おじさんは私です」って当人から連絡があって、Tカードができあがったんです。そんなことありましたよ。
一番初めは91本でしたね。それからだんだん増えて昨年は131本でした。毎年増えています。目標は150本ですね。というのはかかし100本で片道ちょうど20メーター間隔なんですよ。井桁にしたところで10メーターでしょ。150本あるとちょうどいいことになるんですね。今、有効範囲800メーターですから150本に満たないと少し歯抜けになりますね。その歯抜けのところをどう歩かせるか。往復すれば一時間はかかるところですからね。 ★一回目からのご苦労というのはあるんでしょうね。初めからほぼ100本というのもすごいことですものね。 初めの応募は50本くらいだったんです。これでは足りない。 かかしの元は骨組みに頭の部分をつけて胴体をつけたものなんです。最初からずっと協力し続けてくださってるスタッフで柳さんという方がおられるのですが、その柳さんと私がほとんどそれを作って、皆さんに「是非お願いします」って配ってね。 それから結構強力な支持者が出てきたんですよ。名前を出してもいいんでしょうね。コーコー電装さんというところ。何か協力しますよ、ということでトークするかかしを作ってくれたんですね。コンピューターが内蔵されていてすごいものですよ。それ以来、毎年出ていますよ。アレンジして。かかしの前を通りがかると「ネェネェ」って話しかけてくるの(笑)。 それをNHKが朝のおはよう日本で流してくれた。このしゃべるかかしからスタートして、グルッとカメラを廻していってくれた。音声がなくて映像だけですけど、テレビで流れましたね。おかげで知名度も少し上った。 ★やろうって思ってから実際に出来るまでは何年もあったんですか? かかしコンクール?何?って。初めは随分馬鹿にされましたよ。動き出すまでにそこから二年はかかりました。その後、役員会のときに着物を着せたかかしを見本に作っていって、かかしとはなんぞやってやったところがはじまりですね。 ★分部さん自身はかかしへのおもいいれが何かあるのですか? 実は私は昔から稲穂が好きなんですよ。戦災でこの辺一帯が焼けたとき、大宮に嫁いでいた姉を頼って一家で疎開したんですね。そこに三年間、私が小学校三年生の年までいました。それまで、田んぼなんて見たことないでしょ。田園風景。稲穂の脇で遊んだこと、嬉しかったですね。 そんでなんかやろうと思ったとき、たまたまうちの仕事の営業に来ていた人が埼玉県の吉川の人で、その人に訊いたのね。「お宅の田んぼに稲があったら少し分けてくれない」って。そしたら一抱え持ってきてくれた。それを店の前にたてかけて飾った。稲穂がかかっていたら何か欲しいでしょ。雀じゃなんだし、それでかかしを作ったの。男の子と女の子のかかしを置いたら近所の幼稚園の子も喜んで見ていくのね。かかしってのは誰にでも好かれていいなぁって、そのとき思ったんですよ。
稲を飾ったのは平成8年頃。それからしばらくして商店街の理事長が、区でもって補助金が出るから何かやらないかって。申し込み用紙を見たら締め切りまであと2、3日。見積りだとか書いてあって何も思いつかなかったんだけど、この商店街を歩いてもらいたかったから、かかしを並べようかって。ただ並べるよりはコンクールもしようって。そこで勝手に『かかしコンクール』って区のほうに申請しちゃったんですよ。 ★なにかこう途中で困ったということはありませんでしたか? ないね(笑)。余り苦労と思わない。だから出来るのかもしれないね。 ★分部さん自身も楽しんじゃってたところがあるんですね。稲穂とかかしは分部さんの夢でもあったんですね。 そうね。あとはね、思いついたらやっちゃうっていうのがあるね。あまり考えていると自分で駄目な結論を出してしまうことが多いじゃない。さんざんやってから駄目というなら、仕方もないけどね。 ★応募者とか内容はどんな範囲ですか? 始めた当時は応募者というのはあまり無くてね。商店街を歩いて廻ってお願いしてました。でも今は半分が外部です。遠いところでは秋田県、新潟県からも。 でもおもしろいのよ。昔風の絣の着物を着て、腰にかごをぶら下げて、顔はヘノへニモへジで作りも立派なかかしって、子供たちが見ても感動しない。またつなぎの服着てて、そのまま耕耘機に座らせたら人間と見間違うくらいな人間っぽいかかしとかもね。そういうものより時代を表すちゃらちゃらしたもの、そんなもののが評判はいい。NHKの中継の映像もそっちに行きますね。 ★そうするとかかしのイメージがこういうイベントである意味変わったというか、今流のかかしのイメージが構築されたということも言えるわけですよね。 そういうことになるかもしれませんね。 ★この企画にたいして今後の展望はありますか? 2006年に新潟県南部で大地の芸術祭というのがあるんですよ。『越後妻有(えちごつまり)アートトリエンナーレ』といいます。そこにかかしそのものをアートとして出品することが決まったんですが、それが今のところ私の最終目標かな。 ★深川から発信して日本からやがては世界にかかしを!ですね。 まずは全国区にしたいねぇ。去年、高山の市役所からかかしのノウハウを送ってください、なんて依頼も来てましたからね。 |
||||||
|