下町の顔 | FACE |
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2.本当は相撲の稽古も少しはしたんです ★福田さんは最初は呼び出しをやられていたんですよね。 終戦直後におやじがお茶屋の案内人をしていたんですね。だからもともと相撲の世界にはなじみがありました。戦後初めて京都の準場所で昼の食事を出したんですね。そのちゃんこ屋に米とぎにはいった。そのあと大阪でも準場所があって、そのときに二所ノ関部屋の人にスカウトされた。ちょうど年恰好が良かったんでしょうね。終戦直後でしょ。東京は食糧難。相撲取りといるとたらふく飯が食えると飯に誘われて入ったようなもの(笑)。 ★行司、呼び出し、床山って相撲協会ではなくて部屋ごとについているのですか? そうですね。 ★何とか暮らしていかれるようになるには、何年くらいかかるものですか? 私は小僧時代を10年くらいやりましたね。でも今は最初から月給を取りますからね。太鼓なんか音が出ればいいやぁになりますよ。全体的にレベルが落ちちゃうから月給制は良し悪しですね。でもまあ世の中がみんなそうだから仕方ないけど。
特にないですね。それに呼び出しってそれだけをやっているわけじゃなくて結構仕事が多いんですよ。土俵際でやる太鼓、土俵作り、賞金の垂れ幕持ち、拍子木。それから親方にも付くし、審判部にも二人、三人つきますね。お茶番というか、お客さんの接待。 ★ああそうなんですか。じゃ、その中で声のいい人が呼びだしになるんですか? いや順番よ。次はだれって決まっている。でも得手不得手があるから、昔はそれぞれの係りに三つくらいに分かれていた。だから土俵作りなら天下一品!って人が、呼び出しの中にもいましたよ。私なんか体が大きいから太鼓の係り。で、現行制度になってから全員がいろいろやらなければ駄目ってことになりました。 ★どうして相撲甚句を作れと言われるようになったのですか? たまたま地方巡業でね、和歌や俳句をひねくっていた(笑)。自己流。書いた手帳を放り出したまま汽車の中で私がうたた寝をしてたら、こいつ何書いているんだ、って私の前に座っていた若乃花が見たらしいの。そして若乃花が関脇に上がったときに、甚句を作ってくれって要請があった。おれが大分に行って名所を調べてくるからって。大分の名所甚句を作ったのが始まりでした。27歳くらいのときでしたかね。 ★その頃は呼び出しでもないですから相撲甚句をつくってもお金にはならないんですよね。 地方巡業では名所を入れ込んで、はじめに甚句を歌いますね。それでお客さん喜んでそのあとに土俵入りがあるんですよ。お客さんが湧く。それで「今日はどうもありがとう」って小遣い貰う。それだけですよ。 ★呼び出しとか相撲甚句とかで、肝心のお相撲さんには興味はなかったのですか? 実は相撲の稽古もしましたが親が反対しましてね。体も大きくなったんで稽古はしたんですが、家に帰ったら親に、馬鹿!って怒られましたね。3年修行した呼び出しをやめるのかって。石の上にも3年、一番辛いところをやってきたのにって。相撲取りに転向して出世することは容易なことではありませんからね。親の意見、正解でしたね。 ★相撲自体の上下関係があるのはわかりますが、例えば同じ年齢でも相撲取りと呼び出しとは格が違うのですか? 相撲取りは出世をしていなければ何にもならない世界ですからね。呼び出しが10年でお相撲取りがあとから来て、お相撲取りがちっとも出世していなかったら「ばかやろー廊下を拭けぇ!」ってことはありますよ。だけど関取衆になると、今度は付き人つきで偉くなりますから、おれは関取、お前なんか知るかってことになります。 ★呼び出しをやめてから相撲甚句の協会を作ったんですか? やめる前ですね。全国相撲甚句の会って名前で、ここに事務所を作ってね、看板もしまっておいた。定年になってからすぐに看板だしたんですよ。 ★甚句の醍醐味はなんですか? 砂にまみれ塩にまみれっていうお相撲さんの心を歌っているということでしょうかね。 ★相撲甚句をやっていて嬉しかったことはありますか? 太平洋戦争五十年の記念に硫黄島で貴乃花と曙が土俵入りをやったんです。そのときに記念の甚句を作ってくれって言われたんですね。「眠れ戦友よ 硫黄の島に」てのを作って、これは不朽の名作だって誉められましたね。貴乃花が日本の横綱、曙がアメリカの横綱、それに引っ掛けて平和を祈念したんですね。向こうでは、当時幕の内の大至が歌いましたんですが、帰国したら、横綱審議会のある方から福田君って電話がかかってきて、すばらしいね、と言われたときには震えましたね。相撲甚句を作ってきてよかったなぁって思いましたね。
昭和21年11月、双葉山が引退した頃ですが、アメリカにとられちゃって両国が使えなくなって、浜町公園や明治神宮の野天で、屋根を木の皮で作ったりして本場所を二回やりましたね。当時の武蔵川親方と館山親方が、何とかホームグランドが欲しいと米軍に掛け合って、陸軍の格納庫の骨を貰って、蔵前の相撲協会の持っている土地にはじめて作ったのが始まりですね。掘っ立て小屋のようだったですけど、そこで私が一番最初に朝太鼓をたたいた思い出がありますね。 そのあと両国に新国技館ができたんですが、それは栃錦、春日野理事長がもう自分の全精力をかけて作ったんですね。燃えるような念願だった。ここの上棟式、それも私が太鼓をたたいた。初めて太鼓を響かせたのは私。理事長が前日のリハーサルで間違うなよって、ベルを押すときにわかったなぁっ!て燃えるような目。ああこの人は国技館に全精力をかけているなって思いました。感動でした。そういうところに私はかかわれてよかったなぁって。 ★今後の夢はなんですか? 新国技館で相撲甚句大会やりたいですね。大合唱ね。夢です。 ★それではもう少しお付き合いをいただいて、昔はどんなお子さんでしたか? 親父が関係していましたから相撲は小さい頃から好きでしたね。小学校のときは、双葉山、武蔵山、男女ノ川、羽黒山、照国ね。そういうメンコもあったのて遊びましたね。6年生の時は大東亜戦争が始まってしまいましたから、僕たちの時代は育ち盛りに戦争ばかり。 ★下町全体を見てどう思われますか? うん、だいぶ上品になってしまいましたね。宵越しの金は持たないのが下町で、貧乏当たり前。今、上品でしょ。火事、泥棒、我関せず。昔は人情があった。子供がいなくなるとご近所みんなで探した。人情が薄くなったのは時代の流れもあるのでしょうけどね。 ★最後に座右の銘をお聞かせください。 あまりないですけど、甚句そのものですかね。『相撲甚句つくり作りて世を終わる』って、もう辞世の句まで作ってしまいましたよ(笑) 福田さんにお願いをして、相撲甚句を歌っていただきました。呼び出し時代を彷彿とさせる姿勢と朗々とした声に聞き入りました。お相撲さんの世界が少し実感できた気がしました。半世紀以上を相撲にかかわってこられた福田さん。念願である国技館での相撲甚句大合唱が、早急に叶うことを祈りながら辞しました。 |
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※2004年4月収録 |
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