下町の顔 | FACE |
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★どうですか。このサライミシンを作った時の気持ちというのは? 果たしてこれで売れるのかということも少しはあったのですが、展示会に出したら注目でしたよ。他の人が何と言うかと思ったら「ああこんだったらおれも早くできたんじゃないか」だって(笑)。 ★ふふふふ、よく言いますよね。でも展示会に出した段階でパテントはもう押さえてあったわけですよね? それはもう公表する前に、専門の弁護士さんや弁理士さんに全部相談を済ませてますからね。 ★発明して形になって特許とるまでは時間がかかるのですか? 最低3年から4年はかかりますね。 ★その間、心配じゃありませんか?他に類似かもしくは同じようなものが出るのではないかと。 こういうのをやりたいってなると、あらかじめ弁理士さんに調べてもらうんです。外国にないか、国内にもないかとね。あれば潰されてしまうんですね。
かかりますよ。かかります。だから経済的な苦労もありましたよ。だって金さえあればアイディアだけで人に作らせることもできますから。私なんか金がないから苦労はしました。 でも今振り返ると結果的にはそのほうが良かったとは思っていますけどね。人頼みでは完成しなかったのではないかと思いますね。出来上がった第一号を持って行ったら喜んでもらえましたよ。依頼主の社長さんは相当なご年配でもうなくなられていますが「堀くん、これは相当売れるよ」って言われましたね。「おれはおまえんとこの第一号を買ったよ」って、後々まで言われましたね。 ★作った後に大手が特許権を買いにくるということはなかったんですか? ありましたよ。でもねぇ。ぼちぼちうちで作りますから作らせてくださいよって(笑)。断りましたね。 ★大金を積んでの打診とかもあったんですか? いや、そこはわからないですね。その前に断ってますから。あわてないで自分で作ればいいって。 このミシンは売れましたね。パテントはもう切れてますけど、今でもね、メーカーのミシンを壊して堀のブランドでもって、ブランド料はこうなっていますよって言ってね、省力化した機械に生まれ変わらせてしまうんですね。取り付け改造。 それでも日本の特許しかとってないですからね。海外の特許とったら半端なお金じゃない。それで売らなければ何にもならないし。外国でだったら一週間後にはコピーが出てしまうそうですけどね。弁護士さんや弁理士さんが言ってましたよ。 ★なるほどね。特許の攻防はたいへんですよね。堀さん次は何か考えているのですか? いやいや、聞かれたって、そんなわけですから、チャック!ですよ。(笑) ★この仕事の醍醐味ってなんでしょうか?続けられる原動力というのは。 どこにもないのを作りたいというのが夢でしたからね。大手にないものをね。名前が売れて自分の存在っていうか、たいしたもんだなぁって時々いわれると、うれしいですね。機械屋になってよかったなぁって。 ★失敗したことはないのですか? 出荷するときは100パーセント完成してますけど、失敗はもう試作品段階で数限りなく有りますよ。根気や日数との勝負でもありますからね。 ★息子さんは後継者に? 私と同じで頭よくないから工業科を出せばいいんじゃないかと思ってねぇ……ブラザーに研修に行かせてやったこともありましたが、でも、まあ失敗したんじゃないかと(笑)。工場もお客さんもどんどんどんどんなくなっている時代でしょ。後継者の問題は難しいです。 ★特許の件ですが、先ほど口にチャック!でしたが、具体的でなくともどうですか。何かありませんか? アパレル関係での工場が中国方面でしょ。私も若ければね。中国に行ってね研究したり依頼されたりしたいと思いますけど。日本は廃業ばかりでしょ。機械を改造して欲しいなんて話は一件もないですからね。 ★修行する人も中国に行ったほうがいいということですね。 そうですね。中国方面は今、技術のある人がいったら面白いと思いますよ。日本の場合は、ミシンの機械を改良して入れ替えてやろうとしてもTシャツ三枚1000円には対応できないですよ。縫製そのものが成り立たない。今うまいものがあったら考えようと思っても、その技術を買ってくれるところがないです。 ★家庭用ミシンはどうですか? 足踏みから電動、釜も水平がま、穴かがりや裁ち縫いまでできて良くなりましたね。でもミシンを使う方は少なくなりましたね。今はご年配の方だけですよね。趣味でないとしない。昔は布をかけて部屋の隅に置いてありましたけど、今は押入れの中じゃないですか(笑)。
★下町の話を少し。住まわれてどのくらいですか? 50年くらいですよ ★田舎はどこですか? 新潟です。小学校卒業と同時に東京に来ました、軍事工場にね。午前中は化学の勉強、午後は工場の手伝いと一日おきに軍事教練のかたわら工作機械を動かさせてもらっていました。その時の感動は今も記憶に残っています。見よう見まねで工作機械を動かして、旋盤でねじを作ったりして。機械を触るのは好きでしたね。ミシン業界に入るきっかけにもなりましたね。 その後、3月の東京空襲で焼けてそれで一度田舎に帰り再度上京したんですね。 ★下町の好きなところはどこですか? 気さくですね。私もオープンなタイプですから、職人気質の町というか飾ってないというか、そういうところがいいですね。ミシンの代金受け取りに山の手のほうに行くとね、集金は夜に来てください、なんて言うんですよ。 ★何でですか? 奥さん方が見栄を張るんでしょうかね、月賦の集金に来ました、なんていくと怒られる。ラッパ服、作業着も駄目。背広を着てきてくれって。 ★へぇー。 私なんかステテコでゴミを捨てに行くタイプですからね。自分の性分にあった下町は好きですね。山の手だったら肩が凝ってしまうと思いますよ。 ★下町に住まわれて50年。変わったことはありますか? 昔は商店街などあって、この辺で全部のお使いできたけど。人通りもずいぶん減ってしまいましたよね。盆暮れの届け物だって昔はその辺で買ってとどけたものだけどね。 ★それでは、小さいころのお話を。どんなお子さんでしたか? 小学生のころよく鉛筆立てを作らされましたが、作ることは遅いですが、普通のではなくて目立つんですよね。堀くんは一風変ったものを作る、と言われましたね。それが数学はからきし駄目で眠くなってしまう(笑)。書道とかも好きでしたね。 ★そうですか。小さい頃から手先が器用だったんですね。では最後に恒例の座右の銘を。 それはないですねえ。 ★ではちょっと質問を変えて、生きていくための信条とか、これだけは大切にしているとか…… それでしたら、自分の修理するもので手を抜くことはしない。100パーセント完了して出荷する。完璧なものをだしていくということですかね。それはずっと守っていますね。手を抜けば必ずしっぺ返しがありますよ。どこかでね。 ★とことんこだわるということでもありますね。どうもありがとうございました。 思い立ったら寝食を忘れて没頭するという、機械改良の現場はお店の奥にありました。 各種のパーツを作り出していく様々な部品や工具や旋盤が所狭しとありました。 経済構造や暮らし向きの変遷にのみ込まれて、縫製業界も開発製造が海外拠点となることが多くなりました。もう少し若かったら自分も中国の工場にいって開発にかかわりたい、とおっしゃる堀さん。堀さんの胸の中はまだまだ燃えています。日本の下町から、また新たな考案が生まれることを期待しながら辞しました。 |
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※2004年4月収録 |
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