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第32回
「出口のない海」

著者横山秀夫
価格1700円
出版講談社
発行年2004年

 先日、NHKで放送された「子供たちの戦争」で江東区出身のご婦人のことがとりあげられていた。
東京大空襲で祖母、両親、弟、妹を亡くされた。ご自身は疎開していて生き残ったという。
今はもうない江東区の家の跡を訪ねて小石を拾い、それをご自身が作った家族のお地蔵さんと共にお墓に納めていた。彼女の戦後の歩みを思うとき、私たちは何をしなければならないのか、考えずにはいられなかった。

 今回は甲子園の優勝投手が人間魚雷「回天」に志願する物語。
大学野球部の並木は右腕を故障し、高校時代のように投げることはできなかった。それでも魔球を信じ、練習していた。もちろん他の部員は信じていない。
そうした中で、太平洋戦争が始まる。上級生の教室は生徒がまばらになっている。そんな時、捕手の剛原は志願するという。何故、死に急ぐのか。剛原は言う。
「俺はな、俺より年下のやつが先に死んでいくってのが、どうにも耐えられないんだよ」
大好きな野球を、玉遊びじゃないかとみんなに言い切る剛原。

 ついに学徒動員によって、法文系の大学生、予科学生、高校・高等専門学校生徒に対する徴兵が始まった。並木も覚悟を決める。こうなったら行くしかない。
そうした状況を作者は次のように書いている。
「もう戦争が良いとか悪いとかでなく、自分の生まれ育った国が危ないのだと言われて、すんなり聞き流せる神経の太さは並木にはなかった」
 ついに幼馴染の美奈子とも別れるときがきた。モンペ姿ではなく白いブラウスに女学校のスカート姿。道いく人に白い目で見られながらも、並木にモンペ姿を目に焼き付けて出征されるのは嫌だという娘心。二人のいる喫茶店にラベルの「ボレロ」が流れる。
実際には多くの若者がこうした悲しい別れを背負って、出征したことだろう。

 日本海軍の誇った「酸素魚雷」。その性能は世界に誇るものだったが、航空機の発達したなかでは敵艦に接近することが出来なくなり、魚雷を発射する機会は皆無に等しかった。
そこで開発されたのが人間魚雷「回天」だ。魚雷を改造して操縦席を設け、人間が操作し敵艦を攻撃する。脱出装置はない。
 敵国であったアメリカとの違いはいろいろあるが、日本では兵士を機械の部品のようにみなして、その損失を防ぐ手立てを講じることはしなかった。

 回天による攻撃隊に並木は志願した。
しかし、魔球を完成させるための練習は夜の海岸でひそかに続けた。
初めて回天に乗った並木は、その稚拙な操縦のために、生き残りたいがための芝居ではないかと同じ大学出身の北中尉になじられる。操縦が上手なものから出撃するからだ。
生への執着を捨て、訓練に没頭する並木。ついに並木に出撃命令が下りた。
家族と別れを告げるために帰郷する並木。小学六年生の弟が言う。
「お国のために立派に死んできてください」
誰もが軍国少年だった時代とはいえ、悲しすぎる。弟がいるからといって、一度も部下に鉄拳制裁をしたことのない並木は絶句する。
 美奈子には知らせずに帰るつもりだったが、彼女はホームにやってきた。
走り出す汽車に乗る並木に向かって美奈子は懸命に走りながら言った。
「約束して、今度帰るときは必ず知らせるって」
「俺は美奈ちゃんが好きだよ」の並木の声はもう美奈子には聞こえない。

 出撃前夜、並木はまだ魔球の完成目指して練習していた。そんな並木に北は皮肉を言う。
「魔球か?フッ、だから学生上がりは娑婆っけが抜けねえと殴られる」
反論する並木。
「何もしないで、皮肉だけ言いながら死んでいくよりはましだ」
出撃した並木は回天が故障して、戻ってくる。
ボレロが聞きたくて訪ねた国民学校で部下の沖田が言う。
「回天は祖国防衛のための特殊兵器です。国を守ろうとする気持ちなくして回天には乗れないはずです」
もちろんだと沖田の意見を肯定しながら並木は答える。
「回天で突っ込む俺たちはいい。それで特攻の任務は果たせる。神にもなれる。だが残された国民はどうなる?皆殺しになるまで戦うのか?俺の家族お前の家族もみんな死んでしまうのか?ならば俺たちが何本突っ込んだところで、俺たちが守りたいものは何もなくなってしまうじゃないか」
「勝とうが負けようが、いずれ戦争は終わる。平和な時がきっとくる。そのときに回天を知ったら、みんなどう思うだろう。何と非人間的な兵器だといきり立つか。祖国のために魚雷に乗り込んだ俺たちの心情を憐れむか。馬鹿馬鹿しいと笑うか。それはわからないが、俺は人間魚雷という兵器がこの世に存在したことを伝えたい。俺たちの死は、人間が兵器の一部になったことの動かしがたい事実として残る。それでいい。俺はそのために死ぬ」
女教師がオルガンで奏でる「ボレロ」が並木への鎮魂歌となった。

出撃前の連合訓練で並木の回天は行方不明になった。
やがて終戦になり、浮上している並木の回天が発見される。中には変わり果てた並木の亡骸と「魔球完成」と書かれたボールがあった。
並木は今の日本をどんな思いで見つめているだろう。

2004/8/17