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第30回
| 「海燃ゆ」 |
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著者 | : | 工藤美代子 |
価格 | : | 2300円 |
出版 | : | 講談社 |
発行年 | : | 2004年 |
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江東区の豊洲にあった石川島播磨重工東京工場は、平成十四年四月をもって百五十年の歴史を閉じた。
徳川幕府が石川島(現在の中央区佃島)に造船所をつくったのが始まり。戦前は日本初の洋式軍艦「千代田」を始め、37隻の艦艇を旧日本海軍に納入し、戦後も海上自衛隊のイージス艦「ちょうかい」など20隻以上の自衛艦を納入した。
江東区には立派な軍需工場があったのだ。
存続については東京におけるただ一つの自衛艦艇の修理工場として残すべきだという意見もあったが、防衛費の削減による業界再編によって横浜に業務を移転した。
今回は旧日本海軍の山本五十六の評伝を紹介する。
五十六は日米開戦に反対しながら、対米戦争においては優れた戦争指揮をした。そして不運にも前線視察中に待ち伏せに遭い、戦死した。
この程度の知識しかもっていなかったのだが、この作品を読んで大いに勉強になった。
五十六は明治十七年四月四日に六人兄弟の末っ子として生まれた。「死」が二つも重なる縁起の良くない日に生まれたといわれた。
五十六が中学生のときに、長兄譲の長男力が亡くなる。力は医大に通い将来を嘱望されていた。孫の死に際して五十六のほうを見て父が言った。
「これが代わってくれれば、なんのことはなかったにのう」
これほど当人を傷つけることはないだろう。自分の存在を否定され、それ以後どのように生きていけばいいのか、五十六は悩んだのではないか。
五十六は海軍に入り、日本海海戦で軍艦「日進」に乗り組み、大怪我をする。左腕を切断しなければ助からないという。しかし、切断すれば海軍を辞めなければならない。
五十六は言った。
「たとえそれが医科学の上から生命とりになろうと、そんなことは問題ではなかった。はじめから生命は捨てて軍人になっているのだ」
このとき、父から言われた一言が影響していなかったのか。
海軍を通じて日本国に奉職するという一念の背景には、すでにわが身を投げ打つ覚悟をしていた。
五十六は教育者として優れていた。
霞ヶ浦航空隊の副長として勤務していた頃、兵舎のまわりを五十六は氷雨の降る真夜中に巡検していた。副長の大佐自らの行動に部下は驚いた。すると山本は部下に言った。
「甲板士官か、御苦労、君は明日の飛行がある。今夜は僕が廻るから早く帰って寝たまえ」
言われた部下は「目の当たりに神様をみた」と書いている。
そして五十六が殉職者の名前を書いた手帳を片時もはなさず持っていたことは有名だ。
この作品の中に五十六の長男義正氏の発言が出ている。
「戦死者の栄誉に比べて、殉職者には、国の態度が冷たかった。しかし、父にとっては、みな等しく可愛い部下であり、尊い犠牲者であった」
殉職者に国の態度が冷たかったというのはこの作品で初めて知った。
五十六の出身は戊辰戦争の際に旧幕府軍として戦った長岡藩の出身だ。官軍の理不尽な振る舞いに抗した長岡の出身者として人一倍、公正・公平にこだわったのではないか。
五十六は博打が強かった。欧州を視察したときに上官に言った。
「私を二年間欧州各地に遊ばせておけば戦艦一隻くらい製造する費用を獲得できるでしょう」
作者は賭博場が五十六にとって擬似戦場だったのでないかと書いている。
平時においては勝負の緊張感を通じて、精神力を鍛えていた。
その度胸の良さが真珠湾攻撃の実行にあらわれたのではないか。
当時の様子をこの計画の立案に参加した源田実は回顧録の中で次のように述べている。
「他の長官、司令官、参謀長、艦長および中央当局すべてが反対か、二の足を踏んだのが実情であり、また実際に計画と訓練を進めれば進めるほど、前途に横たわる困難が大きかった。こんな場合、人間はえてしてやすきにつきたがるものである。もし連合艦隊司令長官が山本長官の如き鋼鉄の意思を持った人でなかったならば、多数の反対に弱気を起こして、作戦の着想はあったとしても実行には至らなかっただろう」
やがて連合艦隊司令長官になり、対米英戦争に踏み切るというときに実家に寄った五十六は病床の妻のいる部屋に食事を運ばせたという。最後の食事を共にして、翌朝長男を五十六は玄関で初めて見送った。真珠湾攻撃四日前のことである。
そして講演で五十六は聴衆に対して次のように語っていた。
「もしも万一戦争勃発になったら、その劈頭(へきとう)にアッ、やったなと皆さんに叫ばれる事があるかと思う、そのときはすでに自分は死んでおると思われたい」
戊辰戦争のときの祖父たちと同じように五十六もまた二度と再び帰るつもりはなかった。
五十六の予想通り、国力に劣る日本に勝ち目はなかった。
しかもその戦争の指揮を、世界最大の浮沈戦艦「大和」・「武蔵」に乗り組んでおこなった。
五十六が以前、巨大戦艦の建造よりも航空機の製造をと訴えた、その戦艦だったのだ。
自ら乗り組んだ巨大戦艦のことを一度も話題にすることはなかったという。
五十六が命を懸けて反対した三国同盟の結果、日米開戦になることはわかっていた。だからこそ、早期講和を望みながら戦った。
そしてラバウル上空で撃墜される。墜落する長官機の中でその姿は泰然自若たる風で瞑目しているようだったという。
もし五十六が生きていれば、どうなっていただろうか。
作者の頭の中から山本五十六のことが離れないという。それは五十六の生涯があまりにも今日の日本の抱えた問題と直結しているためだとあとがきに書いている。
新たな戦前が始まっているといわれる今日、山本五十六はもういない。 |
2004/7/20 |
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