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第29回
| 「野中広務 差別と権力」 |
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著者 | : | 魚住昭 |
価格 | : | 1800円 |
出版 | : | 講談社 |
発行年 | : | 2004年 |
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1960年代、東京都、神奈川県、京都府、大阪府で相次ぎ、社会・共産両党による革新知事が誕生した。その中の京都府知事の蜷川虎三は1897年深川市で生まれている。府議会では深川仕込みの江戸弁でまくし立てたそうだ。その蜷川知事と対決したのが後の自民党幹事長になる野中広務だ。反蜷川でありながら知事の引退に際しては次のような送別の辞を送っている。
「この議場では時には、今から思うと、横綱に子どもが飛びかかるような光景のようにうつりますけれども、自分では毒舌のように食いかかったことが非常に懐かしい。あるいは時には議場が蜷川教授の教室ではないかと錯覚に陥るような知事の答弁に聞き惚れたこともございます。私は立場を異にはいたしましたけれども、偉大なる政治家と足跡を思い、振り返り、深い敬意を表するものであります」
そして作者によると地元出身の柿沢弘治も予算委員会で血祭りにあげられている。
「あなたはテレビに出て『渡辺先生を総理にしたい』と涙ぐんでおられたから、せめて首班指名のときは渡辺美智雄という票が出てくるかと思ったら、あなたまでが『羽田孜』と書いて、今度はすうっと外務大臣になっている」
と前置きして柿沢がODAに関わる議連の幹部を兼ねながら、台湾にも事務所を構えていると暴露した。
野中は小渕内閣の官房長官時代に政府高官として初めてハンセン病訴訟の原告・弁護団に会い、国の責任を認めている。
また、村山富一も首相在任中の野中自治大臣を回顧して次のように述べている。
「閣議の後に行われる閣僚懇談会でいろんな人の発言を聞いてて、ぼくが一番評価しとったのは野中さんだよ。言うことがきちっとしてるしね。例えば『円高で厳しい中小企業が高金利を払わされている。借り換えできるような措置をとるべきじゃないか』と言ったりね。それに野中さんは誰よりも豊富な情報を持ってるから決断も早い、できんことはできんと言い、やるといったことは必ずやるから頼もしかったですよ」
この作品は参議院議員選挙投票日の新聞の書評で紹介されていた。それを読んで初めて野中が被差別部落出身だと知ったときの衝撃は大きかった。投票に行く前に急いで本屋に行って購入した。そして生い立ちを読むうちに政治家野中広務の原点を知った。
野中の父はお盆や正月になると施設の戦災孤児たちを家に連れてきてご馳走したという。
当時の様子を野中の弟で園部町々長の一二三は次のように語っている。
「食糧難で自分の子もろくに食べさせられんのに、親父が十人も十五人も連れてくるんやからね。われわれは『あっちに行っておれ』と別室に追い払われ、すき焼きなんか食べさせてもらえんかった。翌日からおかゆやら雑炊やらで辛抱しなきゃならんことが何度あったことか。それでも孤児たちに罪は無いのだからと気持ちよう迎えた母親は偉かったなと今になって思います」
選挙区を離れ東京で育てられる二世三世の議員が多い中で、野中の青年時代は異彩を放っている。
数ある逸話の中で凄いと思ったのは、梅田の闇市で会ったケロイドの女との話だ。
野中は友人と二人で酒を飲んでいて、客引きに誘われた。売春宿の二階に上がると白いワンピースを着た女性が座っていた。その女性は火傷の跡で般若の面のようだった。友人は女性の顔を見るなり帰ろうとしたが、野中は違った。
「男やないで。いったん上がって、顔見て帰るなんて馬鹿なことができるか」
野中は女の戦時中の体験を聞いた。
「いろいろ苦労してきたんやな。命があっただけでも良かったやないか。これから必ずいいことあるからな」
二年後にこの友人はケロイドの女と再会する。
そのとき彼女は別れ際に言った。
「あの人はきっと偉くなる。だって、私がこうやって毎日、あの人が出世してくれるように祈っているんだから」
野中はその後、町長、府議、代議士、そして幹事長と出世していく。
その友人はケロイドの女の祈りが通じていると感じたという。
人の痛みを知るものは人に優しくできるのだ。
参議院選挙翌日の新聞の投書欄に、夫がうつ病で入院し、受験の子どもを抱えて今後のことを相談する女性の投稿があった。「人生いろいろ」と言ってのける首相には彼女の痛みはわかるまい。
政治の光が必要なところには届かない現実がある。それを野中はしっかりと認識していた。
しかし、独自の国家戦略を持たず、与えられた役割に忠実だった野中はガイドライン関連法案、盗聴法、国旗・国歌法、改正住民基本台帳法などを次々に成立させていく。
やがて権力闘争に敗れ、ついに引退表明をした野中は次のように国民に訴えた。
「イラクに自衛隊が行ったとき、犠牲者が出なければ日本人は気がついてくれません。正当防衛としてイラクの人を殺すことになる。日本は戦前の道をいま歩もうとしているのです。」
「もう、いまの流れは止めようにも止めようがありません。政治家として退路を断つことで、せめて現在の政治の状況に警告を発するのが私に残された道だと思います。私はもう生々しく生き残ろうと思いません。静かに消え去っていこうと思っています」
野中は最後の自民党総務会で爆弾発言をする。
「総理大臣に予定されている麻生政調会長。あなたは大勇会の会合で『野中のような部落出身者を日本の総理にはできないわな』とおっしゃた。そのことを大勇会の三人のメンバーに確認しました。君のような人間がわが党の政策をやり、これから大臣ポストについていく。こんなことで人権啓発なんてできようはずがないんだ。私は絶対にゆるさん!」
被差別部落出身の事実を隠すことなく歩んできた政治家野中広務の軌跡は、闇夜に輝く昴となって、自らの力で己の道を切り開く者を照らし続けることだろう。 |
2004/7/13 |
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