- チャーリー・ヘイデンとパット・メセニーのつながりは、オーネット・コールマンというキーマンを介しながら俯瞰してみると、意外にも近いテイストを持っていることが見えてきた。以前からこの2人は多くのアルバムで共演を重ねてきたが、パット・メセニーの初期の重要なアルバムでは他のベーシストが弾いていることから、その辺が曖昧な印象しか持ち得なかったのだ。例えば「アメリカン・ガレージ」ではマーク・イーガンと、「ブライト・サイズ・ライフ」ではジャコ・パストリアスと、というように、彼の個性を決定付けることになったアルバムでは、チャーリー・ヘイデンは弾いていないのである。彼は、「80/81」「リジョイシング」「シークレット・ストーリー」などで弾いているし、またオーネット・コールマンとの連名になるアルバム「ソングX」でも、当然のように弾いている。どうだろう、パット・メセニーの数あるアルバムの中では、地味なアルバムばかりに思えてならないのだが・・・。
- 思うに、「アメリカン・ガレージ」や「ブライト・サイズ・ライフ」でチャーリー・ヘイデンがベースを弾いていたとしたなら、ギターとベースで似た方向にベクトルが向いており、ECM的というと言いすぎかも知れないが、大自然の美しさや魅力を映像でも観るかのように表現してみせる彼らの音楽の個性が強くなりすぎて、ベタになってしまうように思えるのだ。事実、チャーリー・ヘイデンのアルバムには、何曲かそういった傾向を持つ曲がある。例えば、「オールウェズ・セイ・グッバイ」に収録されている自作曲「アワ・スパニッシュ・ラヴ・ソング」などのように、どうも演歌的というか、哀歌そのものになってしまっている曲があるのだ。パット・メセニーはこの辺のことを予見して、あえてチャーリー・ヘイデンを避けたのではなかろうかと思ってしまうのだが、考えすぎだろうか。
- それでも、パット・メセニーとチャーリー・ヘイデンが共演した曲は、実に心に染み入ってくるものが多い。また共演アルバムを作らないものかと楽しみにしているのだが、最近のパット・メセニーは、新進気鋭のピアニスト、ブラッド・メルドーとの共演にご執心で、しばらくは期待薄といったところか。そういえば、先般惜しくも他界したマイケル・ブレッカーとチャーリー・ヘイデンの連名アルバム「アメリカン・ドリームス」では、ブラッド・メルドーが大々的にフィーチャーされている。そして面白いことに、ここではさすがのブラッド・メルドーも、チャーリー・ヘイデンのやさしい音楽性に包まれて、随分メロディアスでロマンティックなフレーズを弾いているのだ。アルバム・タイトルからして、確信犯だとは思うが、一切の鋭角さを排除した、アーリー・アメリカン・カントリー・スタイルのキュートな演奏に始終しているのである。
- またこのアルバムでは、パット・メセニーの名曲「トラヴェルズ」を取り上げていることも面白い。カルテット・ウェストの2枚目「イン・エンジェル・シティ」でも、パット・メセニーの「レッド・ウィンド」を演奏しているし、よほど感性に響くものがあるのだろう。ここで面白いのは、カルテット・ウェストというのは、チャーリー・ヘイデンがリーダーを務める、古いビ・バップなどに拘って演奏をするプロジェクトであり、決して新しいジャズを追求するようなものではないのだ。以前はオーネット・コールマンらと、最先端のフリー・ジャズの世界を開拓していたベーシストが、あえて古いスタイルに拘っているのである。その中で、既成の枠にとらわれないパット・メセニーという男の音楽性に共感することの面白さがご理解いただけるだろうか。まさに、知的な遊びに興じているように思えてならない。
- さて、マイケル・ブレッカーが亡くなってから発売された遺作「ピルグリメージ:聖地への旅」は、あまりに元気な演奏で遺作という気がまるでしない。今年のジャズのトップ3に数え得る力作であることは確かだ。ここでは、パット・メセニーは参加しているものの、残念ながら、ベーシストは超売れっ子ジョン・パティトゥッチである。ドラムスにはジャック・デジョネットを据え、ピアノにはハービー・ハンコックとブラッド・メルドーという、新旧のトップ・アーティストが顔を揃えている超豪華アルバムである。このメンツで駄作は有り得まい。しかし、ここまで書いてきた勢いで書いてしまうが、やはり自分としてはベースがチャーリー・ヘイデンでないことが残念でならないのだ。確かに内容からして、これだけ元気で勢いのある内容であれば、チャーリー・ヘイデンではなくてジョン・パティトゥッチを選んだことも理解はできる。
- 2001年に発売されたマイケル・ブレッカーのバラード・アルバム「ニアネス・オブ・ユー」では、パット・メセニー、ハービー・ハンコック、チャーリー・ヘイデン、ジャック・デジョネットというメンバーとともに、実にロマンティックで、そして同時に爽やかという路線を実践してみせた。ただし自分はこのアルバムも100%満足したわけではなかった。大好きなジェームス・テイラーがヴォーカルで参加しているのだが、彼のヴォーカルがあまりこのアルバムの色に合っているとは思えなかったのだ。大好きなミュージシャンが、ジャンルの壁など軽く越えて集まっている大名盤ではあるのだが、どうも満足しきれていなかったので、次に期待してしまったのである。そして、人の死という必然から、このトップ・ミュージシャンのサミットのようなメンツが一同に会することは、もう二度と有り得なくなってしまったのだ。これが残念でないわけがない。「ピルグリメージ」の発売告知のメンバーを見たときの、悄然とした気分は忘れられない。ただし、ジョン・パティトゥッチが悪いとか、物足りないわけでは決してない。
- そんなわけで、パット・メセニーやチャーリー・ヘイデンの周辺の音源をあさり、あれこれと聴いて楽しんでいるのだが、そこで一つ気がついた。この連中の音楽、どうも夏の雰囲気ではない。凍てつくような寒さの中で聴くほうが似合いそうな気がしているのだ。チャーリー・ヘイデンのベース音は、ずっしりと重いが引き締まっている音ではなく、輪郭が曖昧な柔らかい低音なのである。これ、どうも夏の暑さの中で聴くと、緩んでしまったような印象を受けるのだ。実際、ゴンサロ・ルバルカバあたりをフィーチャーしたアルバムなど、かなり引き締まったものもあるのだが、やはりこの暑さのせいか、あまり知的に聴こえないし、集中して聴くことができない。いずれにせよ、知性を感じさせる低音ではあるのだが、猛暑の夏には、やはり知性などと言ってはいられないということか。勝手なことを言いおって、と叱られそうだが、音楽とは聴く側の条件で、どのようにも変化するものであることも事実であろう。せいぜい、思考停止状態の蕩けた脳みそを癒し、秋風に期待するしかなさそうだ。これからの季節が楽しみでならない、下町のオヤジであった。
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