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下町地名由来辞典
WALK

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地図上の数字をクリックしても説明文にいかれます。



エリア内の地名は赤地に白文字、エリア外の地名は黄地に黒文字になっています。また、現在、町名としては残っていなくても、神社仏閣、学校等、何らかの形で名前が残っているものは取り上げています。(現在01から81まで)
-77から81まで更新しました。2005.10.25-



あ行

01明石町-あかしちょう
(中央区)
地名の由来は、播磨明石の漁師が移住したからとも、明石の浦に風景が似ているからともいわれています。

02浅草-あさくさ
(台東区)
「武蔵野の末にて草もおのづから浅々しき故浅草と云しなるべし」が地名の由来の定説のようです。
隅田川沿岸は砂地が多く、大きな草も生えなかっため、浅々しき草の意のようです。
浅草の地名はかなり古く、奈良時代には浅草寺の寺名とともに知られていたと思われます。
78浅草橋-あさくさばし
(台東区)
神田川にかかる橋が地名の由来です。
当時、神田川から北は浅草と呼ばれていた地域でした。
ここには江戸から北へ向かう奥州街道の入り口として浅草見附が出来て、門と橋が作られました。
浅草見附にあった橋なので、この橋は浅草橋と名づけられました。

12甘酒横丁-あまざけよこちょう
(中央区)
この横丁の入口に、明治のころから尾張屋という甘酒屋さんがありました。
いつもたくさんのお客様で賑わいそこから名前がつきました。
当時は、甘酒屋横丁といわれました。
50石川島-いしかわじま
(中央区)
佃は隅田川河口に堆積した三角洲で、古くは森島、鎧島などと呼ばれていました。
その後、御船手頭、石川八左衛門重次の拝領地となったため、石川島と呼ばれるようになります。
現在、地名は消滅しましたが、当時、水戸藩が島の北部に創設した石川島造船所(現:石川島播磨重工業)にその名前は残っています。
しかし、その石川島播磨重工業も、近年江東区豊洲へ移転しました。

70石原-いしはら
(墨田区)
隔田川に沿った砂礫の多い土地であったことから、石原の名がついたといわれています。
36海辺-うみべ
(江東区)
慶長元年頃から小名木川南岸一帯の開拓が始まりました。
開拓地はいずれも当時は海を臨む地域だったので「海辺新田」と総称されました。
その後、海辺新田はだんだん開けて町となって独立し、最後にわずかばかりの海辺新田字蔵吹野がこの近辺に残ったので、その名をとって町名となりました。

61永代-えいたい
(江東区)
昔、このあたりは隅田川の寄り洲になっており、島のような地形をしていたため永代島とよばれていました。
永代の地名はここから来ています。
ただし、島の名前の由来は定かではありません。
ちなみに、永代橋は永代島の地に架けられたことからこの橋名になったとされていますが、一説には五代将軍綱吉の50歳の賀を祝してその名を付けられたとも伝えられています。
72枝川-えだかわ
(江東区)
埋立4、5号地にできた土地です。運河が枝状に町内を巡ることからついた地名です。

11越中島-えっちゅうじま
(江東区)
江戸初期の一時期、藩州姫路の領主・榊原越中守の別邸があったので、俗に越中島と呼ばれていました。
09大伝馬町-おおてんまちょう
(中央区)
1606年江戸城拡張に伴い、城郭内で伝馬(宿場から宿場へ物資を運ぶ馬)、荷駄の役を務めていた宝田村の駅家(うまや)がこの地に移ってきました。
日本橋に近い江戸の中心地ということもあって、宿駅制度を支える伝馬番にあたる地域となりました。
そこから大伝馬町という町名になりました。
同じく移転した千代田村の駅家は少し小規模なため小伝馬町となりました。

49小名木川-おなぎがわ
(江東区)
川の歴史自体は古いのですが、水路として整備されたのは江戸時代に入ってからです。
その改修工事を命ぜられた小名木四郎兵衛から川の名前がつけられました。



か行

13蠣殻町-かきがらちょう
(中央区)
江戸のはじめ、建築に使った材料名からきています。
当時は牡蛎の殻を粉にしたものを瓦などの建築材料としました。

37勝どき-かちどき
(中央区)
日露戦争の勝利を祝って旧京橋区民が渡船場を設け、勝鬨の渡しと名づけました。
後に勝鬨の渡しは勝鬨橋となり、近辺にあった町の名前にもなりました。
「鬨」を漢字でなくひらがなで「どき」と書くのは、この字が当用漢字になく住居表示法に見合わなかったためだそうです。
14兜町-かぶとちょう
(中央区)
由来は、この地に伝わる兜塚にちなんだものだと言われています。
ただし、その兜塚に関する伝説は様々です。

15亀戸-かめいど
(江東区)
地名の由来は二説あります。
1つめは、村内に「亀ヶ井」という古井戸があったからという説。
その後、亀ヶ井が亀井になり、亀井のある処で亀戸となったと言われています。
2つめは、昔はこの地域は島で形が亀に似ていたので亀島といい、のちに陸続きになったので亀村に転じたとされています。
その後、亀村から亀居処(亀のいる所)に転じ、さらに亀戸になったといわれています。
どちらが本当かは不明です。
16茅場町-かやばちょう
(中央区)
徳川家康の町づくりによって埋め立てられたこの地に1606年の江戸城拡張工事で神田橋外からカヤ商人が移住させられ、この町名が生じたといわれています。

65亀沢-かめざわ
(墨田区)
横町名の由来は、近くの旗本荒川助力郎の屋敷の敷地内にあった池を、亀沢の池と呼んでいたことによると言われています。
池自体の名前の由来は定かではありません。
52神田川-かんだがわ
(台東区、中央区)
東京西部より流れて隅田川に注ぐ河川です。
川の名前の由来は神田山を切り開いて通した川だからとか、神田一帯を流れる川だとか諸説あります。

23菊川-きくかわ
(墨田区)
町名は、川古跡・菊川にちなむようです。
現在の3丁目あたりを流れていた小堀の名が菊川だったらしく、1696年、その名をとって本所菊川町が誕生しました。
05木場-きば
(江東区)
江戸の町づくり開始以来、材木商たちは各地を転々とさせられました。
市中では火事の原因となるし、材木が焼けて復興の妨げにもなるという理由から深川の埋め立て地が材木置場に指定されました。
その後、材木商たちはこの地に定着し、材木を置く場所という意味から、元禄16年に木場町と命名されました。

24清澄-きよすみ
(江東区)
1629年、この一帯の干潟を開拓した人々の1人に弥兵衛という男がいました。
この地は弥兵衛町と名付けられましたが、その後、清住町となります。
清住は、弥兵衛の姓であろうといわれています。
昭和7年、清澄町に改称しました。
27錦糸-きんし
(墨田区)
錦糸という単語は錦糸堀からきています。
錦糸堀は、東西に走る南割下水の大横川より東側の呼び方で、これに沿う地域の俗称にもなりました。
堀名については、岸堀がなまった、近隣で琴糸の錦糸をつくっていたなど諸説あります。
ちなみに有名な本所七不思議の「おいてけ堀」は錦糸堀のことです。

20蔵前-くらまえ
(台東区)
蔵前の名前は当時、江戸幕府の御米蔵がそこにあったことに由来します。
00江東区-こうとうく
深川区、城東区の二区が合併してできました。
由来は、江東の江が隅田川、東はその東という地理的な意味からきています。
江は深川、東は皇居の東側の意味も含めているということです。

77小島-こじま
(台東区)
この近辺に三味線堀という堀をつくった際にあげられた土で、小島屋由之助という商人が沼地を造成してこの地を作ったのが地名の由来とされています。
しかし、雨が降るとこのあたりが池のようになってしまい、この地が小島のように残るからという説もあります。
28小伝馬町-こでんまちょう
(中央区)
この地は、江戸以前から奥州街道に沿った宿駅で、六本木といわれていました。
1606年江戸城拡張に伴い、城郭内で伝馬(宿場から宿場へ物資を運ぶ馬)、荷駄の役を務めていた千代田村の駅家が移ってきて、小伝馬町となりました。
同じく移転した宝田村は、馬家(うまや)が多かったので大伝馬町とよばれます。
また当時、小伝馬町は牢屋敷の所在地として有名でした。

82寿-ことぶき
(台東区)
命名時、おめでたい名前ということでこの地名が選ばれました。
83駒形-こまがた
(台東区)
地名の由来は浅草寺の参道入口に建つ駒形堂がこの地にあったことによります。
駒形堂とは馬頭観音を祀った宝形土蔵造りのお堂のことです。

54紺屋町-こんやちょう
(千代田区)
幕府御用の紺屋頭、土屋五郎左衛門に、徳川家康が関東八州および伊豆方面の藍の貰い付けを許し、この地を授けました。
当時、藍染職人が集住したので、この町名が生じました。



さ行

62佐賀-さが
(江東区)
かつてこのあたり一帯は海岸の干潟でしたが、埋立地として開発されまし
た。
最初は開発者の名前をとって、次郎兵衛町、藤左衛門町と呼ばれていました。
その後、両町の地形が肥前の佐賀港に酷似しているところから佐賀町と改められました。

53佐久間町-さくまちょう
(千代田区)
日本橋本材木町の材木商、佐久間平八らが移住して起立した町です。
町名はそれに由来すると言われています。
29猿江-さるえ
(江東区)
源義家の奥州征伐のころ、この地の入り江に武士の死体が漂着しました。
よろいに書いてあった名前が源義家臣猿藤太でした。
人びとは、ねんごろに葬り、祠を建てました。
あくまで言い伝えですが、それ以来この土地は猿江と呼ばれるようになったと言われています。

46塩浜-しおはま
(江東区)
昭和になってそれまであった塩崎町と浜園町が合併して町が出来ました。
それぞれの名前の一字をとって現在の町名は出来ました。
74潮見-しおみ
(江東区)
埋立8号地に編入され、潮の香りをイメージしてこの名にしました。

35白河-しらかわ
(江東区)
寛政改革で名高い白河藩主で老中でもあった松平定信の墓所が、この地の霊巖寺にあり、それが地名の由来です。
ただし町名となったのは没後、百年余のことです。
38新大橋-しんおおはし
(江東区)
この地名はそこに架けられた橋の名前からきています。
新大橋は、当時、大橋と呼ばれていた両国橋の次に架けられた、新しい橋ということからつけられました。
町の名前として登場するのは関東大震災後の区画整理の時で、御船蔵前町、安宅(あたけ)町、西六間堀町、八名川町などの町々が統合してできました。

81新川-しんかわ
(中央区)
昔は町の中央に新川という運河が掘られていて、その川の名にちなんでつけられました。
57砂町-すなまち
(江東区)
この辺りは、元々海岸の寄り洲であった所を砂村新四郎が開発した地帯です。
砂村新四郎は久里浜を開発した砂村新左衛門の弟で、砂村兄弟が開拓事業をおこし、この地を砂村新田と名づけました。
その後人が増えて村になり、砂村(村の名前)と名前を変えます。
そして大正時代、国が町制を施行、砂町となりました。
その後分離を繰り返し、北砂、南砂、東砂、新砂、と分かれました。

31隅田川-すみだがわ
(台東区、墨田区、中央区、江東区)
隅田の名称は、この川に対する美称で、澄んだ美しい川の意味ですが、異説はきわめて多くあります。
00墨田区-すみだく
本所区と向島区の二区が合併してできた区です。
墨田の語は、古来より広く親しまれてきたゆかりの地名「墨提」、区内を流れる川、「隅田川」から1字づつとって「墨田」となりました。

42住吉-すみよし
(江東区)
昭和になってできた町です。
住みよ(吉)い町にしようということで名づけられました。
44千石-せんごく
(江東区)
昭和になって出来た町です。隣の千田町と石島町の頭の一字をとって名づけられました。

75千田-せんだ
(江東区)
江戸で出たごみの埋立地であったこの地を、近江屋庄兵衛らが開発しました。
近江屋の名字が千田であったことからこの名がつきました。
45仙台堀川-せんだいぼりがわ
(江東区)
江戸時代、この川沿いに仙台藩の蔵屋敷があったことに町名は由来しています。





た行

00台東区-たいとうく
浅草区、下谷区の二区が合併して生まれました。
東は、上野台の台地と、東に広がる浅草の広地をさします。

48高橋-たかばし
(江東区)
この地名はそこに架けられた橋の名前からきています。
橋の名前は橋脚が非常に高かったことからつけられています。
73辰巳-たつみ
(江東区)
埋立7号地にできた土地です。
江戸城から見て南東(辰巳)の位置にあることからこの名を町名としました。

67立川-たてかわ
(墨田区)
普通、縦横は地図で見ると南北が縦、東西が横ですが、横川(現在の大横川)、竪川の縦横は江戸城から見てつけられました。
だから東西に流れる川が竪川、南北に流れる川が横川となります。
この町名はその竪川にちなんでいます。
25千歳-ちとせ
(墨田区)
本所一ツ目の弁天門前町や武家地を合わせ明治2年、本所千歳町が誕生しました。
めでたい言葉だということでこの名前が選ばれました。

00中央区-ちゅうおうく
日本橋区と京橋区が統合されて誕生しました。
新区名は、東京の中央すなわち中心との意識から中央区になりました。
03佃-つくだ
(中央区)
江戸幕府から鉄砲洲沖の干潟を拝領した30余名の人々が、1644年に家を建て、郷里の佃村の名をとって佃島と命名しました。
後に埋め立てられるまでここは島だったのです。
郷里の佃はもとの摂津国の佃村(現・大阪市西成区)のことで、漁民が田を「作った」ので「つくだ」と呼び、「人が作った田」なので佃の文字をあてていました。

04鉄砲洲-てっぽうず
(中央区)
現在の湊、明石町あたりの地が鉄砲洲と呼ばれていました。
今は中央区湊にある鉄砲洲神社にその名を残すのみとなってしまいました。
寛永年間のころ、井上、稲富の両家が大筒(大砲)の試射をしたためこの名がついたという説と、出洲の形が鉄砲に似ているからの説があります。
26東陽町-とうようちょう
(江東区)
東陽の地名は、旧西平井町に明治33年開校した東陽小学校の校名によります。
ところが校名の出所は現在、謎に包まれています。

76富岡-とみおか
(江東区)
富岡の名は、現在の横浜市富岡町にある富岡八幡宮の分霊により、深川富岡八幡宮が建立されたことに由来し、この地が名付けられたと言われています。
10富沢町-とみざわちょう
(中央区)
もとの名前は鳶沢町(とびさわちょう)です。鳶沢という人が古着市を開き非常に繁栄したのでその名をとったと言われていますが、鳶沢はかつての盗賊でこの者にこの地を開拓させたためにこの名がついたという説もあります。その後「鳶」の字を「富」ににあらため富沢町になりました。

39鳥越-とりごえ
(台東区)
町名は鳥越神社からきています。
その昔、源義家が奥州征伐の時、この地で海によって行く手をふさがれてしまいました。
その時、海上を飛ぶ白い鳥によって浅瀬をみつけられ、海を渡ることができました。
その故事から鳥越の名がつけられました。



な行

00日本橋-にほんばし
(中央区)
町名の由来はそこに架けられた橋名によります。
橋の名前の由来は江戸時代、町割を行った時に、五街道の起点として、諸国への行程の中心であることから架橋命名されました。
時代は流れて東京都にあった日本橋区と京橋区が合併して中央区ができることになりました。
しかし、日本橋区では旧区名に対する愛着が強く、統合に際して「旧日本橋区の区域の町名呼称は中央区日本橋〇〇町〇丁目〇番地と呼ぶものとする」という但書きを付けました。
日本橋茅場町などは、そんな経緯によるのです。

30人形町-にんぎょうちょう
(中央区)
江戸時代、この地には中村座、市村座などの歌舞伎や操り人形芝居が行われ、付近に人形を作る家が多かったため、俗称で人形町と呼ばれました。
その後、昭和8年に一部近隣の町も統合し、正式に人形町となりました。
58練塀町-ねりべいちょう
(千代田区)
昔、この地は武家屋敷が密集する地帯でした。その中央を南北に通じる道路を、通称「下谷練塀小路」と呼んでいました。
そのうちの越後新発目藩溝口信濃守の邸宅の外囲いが練塀であったことによるとか、南側にあった河野氏の屋敷の練塀が目立っていたので、この呼び名が生じたといわれています。
練塀とは、土と瓦で築き上部を瓦で葺いた土塀のことです。
現在の練塀町の名前はその「下谷練塀小路」からきています。





は行

60馬喰町-ばくろちょう
(中央区)
この辺りは、古くから定期的に馬市(馬を売買する為の市)が立っっていました。町名は、幕府の博労頭(牛馬の売買や仲介をおこなう人たちのこと)が住んでいたことによります。

17箱崎町-はこざきちょう
(中央区)
日本橋の中州と霊岸島にはさまれて、隅田川の河口にできた島でした。
昔は満潮時に水面下に没する砂洲でしたが、その後、埋め立てられた。
町名のいわれは、筥崎宮(現在の福岡県)にちなんだとも、ここに箱崎池があったからともいわれています。
18浜町-はまちょう
(中央区)
江戸時代、隅田川にそった浜辺の町という意味から俗称で使われていましたが明治5年、正式に浜町の町名がつきました。

80東日本橋-ひがしにほんばし
(中央区)
その名の通り、日本橋の東側ということが地名の由来です。
41平野-ひらの
(江東区)
江戸時代、この地にはじめて町屋を開き名主となった平野甚四郎長久の姓をとって町名がつきました。

40深川-ふかがわ
(江東区)
慶長年間、摂津から来た深川八朗右衛門が当時湿地帯だったこの地域の開拓に力を尽くしました。
深川の地名は徳川家康が彼の実績を賛えてその名字から名づけたものです。
22冬木-ふゆき
(江東区)
材木豪商冬木屋があったことに由来します。

21古石場-ふるいしば
(江東区)
地名の由来は、古くは石置き場であったというような意味からきています。
その昔、隅田川河口に小島状の寄り州があり、越中島と呼ばれました。
その後たびたび浪風におかされてだんだんと土地が崩れ落ちたのでついに幕府に返上し、その一部がわずかに石置き場として使われました。
その地域が現在の古石場という名前の原点です。
71牡丹-ぼたん
(江東区)
明治初期、この近辺に牡丹を栽培する家が多かったことからこの地名がつきました。

34堀留町-ほりどめちょう
(中央区)
東西に流れる川(堀)がここで止まるため「堀留」といわれていました。
32本所-ほんじょ
(墨田区)
本所はもとの土地、中心などの意味からきています。

55本町-ほんちょう
(中央区)
日本橋本石町から日本橋大伝馬町辺りまで、東西に流れる江戸屈指の目抜き通りがありました。
ここは、徳川氏入国後最初に町割りがおこなわれ、江戸市街地計画のもとになったところです。
また、江戸城大手門の真東にあたり、諸街道の起点である日本橋に隣接することから、江戸の大元の町という意味で本町と名づけられたと言われています。



ま行

69松坂町-まつざかちょう
(墨田区)
現在の両国に出来た町です。元は幕府の御竹蔵でしたが、元禄のはじめの頃、武家地となり、忠臣蔵でおなじみの吉良上野介屋敷がありました。
その後、町が成立。
町名の由来はいくつか説があります。
近隣に相生町、松井町、緑町など、松の木に縁がある名前が多いので、この名前になった説。
徳川氏の松平にちなんだ説。あるいは、本所の町名は新開地が多かったので、めでたい町名を付けた説。
さまざまに言われています。
現在は墨田区両国にある「本所松坂町公園(吉良邸)」にのみ、その名を残しています。

79三筋-みすじ
(台東区)
鳥越神社の境内であったところに、武家地として大番組・書院番組の組屋敷が置かれました。
の中に東ノ町・中ノ町・西ノ町という3つの町と3条の道を造ったことから三筋と呼ばれるようになりました
66緑-みどり
(墨田区)
元々は河岸沿いの空地でしたが、いくつかの町が火除地として没収された際(江戸は火事が多かったため)、それぞれの町の代替地として与えられできた町です。
めでたい松の緑にちなんで緑町と命名されました。

68湊-みなと
(中央区)
隅田川河口右岸に近く、八丁堀川と亀島川合流点の南側に位置した海沿いの町で、諸国からの回船が入港するため、この町名が生じました。
33向島-むこうじま
(墨田区)
向島は、浅草のほうから見て、隅田川の川の向こう側の意味を表しています。

43毛利-もうり
(江東区)
麹町の伊勢屋という商店の毛利藤左衛門が、私財を投じてこの地にあった入掘を埋めて新田を作りました。
そこは毛利新田と呼ばれるようになり、それにちなんで現在の町名が出来ました。
63元加賀-もとかが
(江東区)
江戸の初期、江東区三好、白河のあたりは、加賀金沢藩前田宰相の下屋敷となっていました。
その後、市民に開放され、町となり、元加賀町という町名が付けられました。
現在は江東区白河にある元加賀小学校にその名称が残っています。

47森下-もりした
(江東区)
町の西のほうにあった酒井左衛門尉の下屋敷に深い森があったことから由来は来ています。
06門前仲町-もんぜんなかちょう
(江東区)
富岡八幡宮の別当永代寺の門前町屋として1653年起立しました。
名前の由来はそこからきています。
昔は深川永代寺門前仲町とよばれていました。





や行

59薬研掘-やげんぼり
(中央区)
江戸時代、この辺りに矢ノ倉と呼ばれる蔵がありました。
軍用の矢を格納する蔵があったからとも、幕府の米蔵だったとも言われています。
その周囲は石垣に固まれていましたが、蔵は元禄12年に取り払われ、周囲の掘も大部分が埋め立てられました。
そして、一部残された隅田川河口近くの堀は薬研堀と呼ばれるようになります。
薬研とは、漢方薬種を細かく砕く鋳鉄製の器具のことで、この俗称は堀の形がV字形にくぼんで薬研に似ていたからとも、また、このあたりに医者が多く居住していたためともいわれています。
在「薬研掘」は薬研掘不動院にその名を残すのみとなっています。

64八名川-やながわ
(江東区)
新大橋の東側にあった町。
江戸の初期には、幕府の軍船安宅丸の船蔵が置かれていた所です。
その後、火事で類焼した神田八名川町の代替地として住人に与えられました。
神田八名川は、江戸時代初頭、三河八名川村出身の旗本に向柳原と呼ばれていたその地域が与えられたのが、名前の由来とされています。
そして、深川八名川の町名の由来は、神田八名川町の町名を引き継いだという説と、柳原から住人は移ってきたので八名川町になったという2説があります。
現在は江東区新大橋にある八名川小学校の名前にのみ、その名称が残されています。
19柳橋-やなぎばし
(台東区)
柳橋は元来、橋の名前です。
架橋は1698年。
近くに幕府の矢の倉があったため矢之城(やのぎ)橋などと呼ばれていました。
柳橋になったのは1.柳の木があった 2.柳原堤の末に当たる 3.矢之城橋からの転化、の諸説があります。

76夢の島-ゆめのしま
(江東区)
昭和14年から造成されたごみの埋立地です。
当初、飛行場や遊園地の建設も計画されており「夢の島」と都が銘打って地名になりました。
08横川-よこかわ
(墨田区)
普通、縦横は地図で見ると南北が縦、東西が横ですが、横川(現在の大横川)、竪川の縦横は江戸城から見てつけられました。
だから東西に流れる川が竪川、南北に流れる川が横川となります。この町名はその横川にちなんでいます。

56横山町-よこやまちょう
(中央区)
その昔、この土地は、御家人の横山氏の知行地でした。
町名はその横山の名前に由来すると言われています。



ら行

07両国-りょうごく
(墨田区)
武蔵国と下総国は隅田川を境としていましたが、1659年に大きな橋が架けられ、両方の国をはさむという意味から両国橋の名が起こりました。
その西詰には見世物小屋が並び、近くの柳橋は料亭の街となりました。
いっぽう東詰には明暦の大(1657)の死者を埋葬した回向院があり、1781年以降、境内で観進相撲が行われました。
この両詰の地域を、橋の名を採って両国と呼ぶようになりました。
現在は東側の墨田区のみに地名が残りました。

51霊巌(岸)島-れいがんじま
(中央区)
中央区新川の辺りは、その昔日本橋川の下流部と、亀島川とに囲まれた島になっていました。
その地に霊巌雄誉上人が、京都知恩院分院、道本山東海院霊巌寺を建立します。
その寺号が島の名前となり霊巌島と呼ばれるようになります。
明暦の大火後、霊巌寺は深川(江東区白河)へ移りますが、霊厳島には町屋ができ栄えます。
そのため新川の近辺には未だに霊巌(岸)島に関連のある名前が残っています(霊岸橋など)。




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