下町の顔 | FACE |
|||
|
★学校でやったのはいつ頃からですか? もう第一回目からですよ。中村学園と明治小と白河小とで始めました。学校の総合教育の一環として今まではメダカの卵で教えてたんですね。でもメダカは小さくて見にくい。サケは5、6mmで見やすい。世田谷区は役所や教育委員会が後援しているでしょ。
あのね、今年からやっと認可が下りたんです。江東区、江東区教育委員会と、深川消防署、臨海消防署、この四箇所の後援がついたんです、やっと。放流に集まってくる人が年々多くなってきたんですね。去年は350人。 ★350人ですか。すごいですね。ところで会長さんの苦労というものはどのような点ですか? それはやはり今後はどうしたらいいのかなぁということですね。この役員構成で何年やってんだって。町の青年たちが興味を示してくれればいいんだけどね。環境問題としてもね。 ★何か秘策はありますか? 多摩川はね20万匹も世話することができたのは、サケの飼育のときになるとあのそばの大学の学生がボランティアで出てくる。こちらもそういう人たちが手伝ってくれるといいと思いますね。 2.生きてきたことが全て財産 ★それでは柳沢さんの人生のほうを少し。人生85年の中で大変な時期はありましたか? 戦後復興の時期、仕事は忙しかったですね。火をかぶったくらいでガラスの窓枠はみんな使えましたからね。まず石川島の工場の改修、ガラスのはめ込み仕事から始まりましたね。 ★天災、震災のときって、こういう言いかたはなんですが逆に忙しい職種でもある? そうですね。石川島の敷地の中に飯場を貰って、うちのお袋は食事の用意でそこに泊りがけでしょ。店の者も7、8人連れて寝泊りをしている。現場と飯場の往復。そのうち小学校の復旧工事も始まった。 ★東京大空襲はどのようでしたか。この辺の方みんな亡くなられたんですか? いやこの辺の人は清澄庭園の池で助かりました。警防団というのがあって誘導が良かったんですね。人々は池ん中に入る。警防団の人が池の周りに迫ってくる火を消してやる。うちのおやじも警防団員でした。 ★地域の人たちがみんなまとまって鮭の会を作っているという話と、警防団とつながりますね。 それが深川の良さじゃないかナァ。それこそ下町の良さだろう。バブルのとき銀行が金貸すって。土地を売ってあっちこっちが、くしの歯が抜けたように土地が空いたでしょ。そのときにこの辺はそんなことがなかった。昔からの人たちが土地の中に残ったということになるね。住みこごちがいいねぇ。一所懸命いろいろなことをみんなでやってきて……みんな爺にはなってしまったけど(笑)、おんなじやってきた仲間が残っているのはいいねぇ。
ないね。えばってられるもの(笑)。誰に会うったって、おはよう!でっかい声で言うんだよ。ここらへんはラジオ体操も盛んでね。あの会この会で、新年会だ忘年会だって、忙しい。 ★10歳の頃ここに来ましたよね。町のガキ大将だったんですか? 関東大震災のとき5歳。昭和3年のとき10歳で城東区のほうに越してきた。北海道の開拓移民だったけど百姓では暮らせなくて、親父たちは夜逃げですよ。入学は大島尋常高等小学校。途中から清澄に越したので、学校も明治小学校に転校しましたね。 ★子供のときは何をして遊ばれましたか? この近所は子供たちがいっぱいいたでしょう。ガキ大将が順番に小僧に行っちゃったりすると、今度は6年生がガキ大将になる。私も5年か6年のときにガキ大将を継ぎましたね。 毎日遊ぶことはいっぱいあったねぇ、空き地ばかりでね。集まる場所も決まっていて、軍艦遊戯だ。隣の町内の駄菓子屋に行くんでも、あそこのかんしゃく玉が買いたいと思っても力づくで強いのが隣の町会にいたりすると、ガキ大将は骨が折れるよ。あははは。めそめそするわけにもいかないし。 ★では最後になりますが、座右の銘を。 あまりないなぁ。生きてきたことが全て財産かな。友達が財産、地域の人たちと仲良く暮らしてきたことが財産……。イベントのときに集合写真を撮ってきたけど、その写真がそのまま俺の生き様だと思うんだよね。それに家も大家族だった。店の人も住み込みでしょ。仕事は忙しい。家族は多い。夜は会合で忙しい(笑)。 ★忙しいのに家にいないんじゃ、かみさんに怒られたでしょう? ああ、怒った怒った(笑)。朝、どこそこ行くよって作業服着てスケールもって家を出るんだけど、青少年委員会だとかPTAだとか世話焼きをやっていたからそっちの時間に合わせてしまって。かみさんには、お父さんがちゃんとガラス屋やればもっとよくなったのにねって、未だに言われる。 ★集まる場所が多いというのはいいですよね。これからも健康に気をつけてサケを育ててください。ありがとうございました。 身振り手振りでサケにかけた夢を語る柳沢さん。サケが網にかかったニュースで、放流したものがいよいよ帰ってきたかの箇所で、サケが食べられてしまったあとだったとのくだりを話す柳沢さんの肩の落とし方……本当にサケを愛してやまない方だなぁと思いました。 隅田川の浄化を行政に働きかける一方で、命の教育の一片として、放流するサケの稚魚を見守り続ける柳沢さん。その両の手はとても大きいです。しっかりとしたものを育て続けている手だなぁと思いました。 |
||||||
※2004年1月収録 |
||||||
<<前のページへ |
|