芭蕉墨直しの碑

所在地
台東区清澄3-4-6 臨川寺内
電話番号

観覧料
無料
交通案内
電車の場合都営大江戸線「 清澄白河 」駅 徒歩1分
バスの場合 (門33)「 清澄白河駅 」下車 徒歩1分
(秋26)「 清澄白河駅 」下車 徒歩1分
 臨川寺は、仏頂禅師が寛文の頃(1661〜)に創立したものです。芭蕉が宗房と称し、深川に庵をさだめた天和の頃(1681〜)臨川寺にいた仏頂禅師と親交し、ここに参禅したと伝えられています。その時の問答に、 仏頂「梅子熟せりや」 宗房「桃の青きが如し」 というのがあり、その時から松尾桃青と号したといわれています。延享の頃(1744〜)、江戸小石川(文京区)の神谷玄武坊白山が、蕉門の各務支考が京都双林寺に建立した鑑塔の墨跡をここにうつして、墨直しの碑と称しました。
 白山老人が建立した碑は、戦災のため損傷しましたが、昭和37年に再建されました。 その碑文はつぎのとおりです。
 「我師は伊賀の国に生れて承応の頃より藤堂に仕ふ。その先は桃地の党とかや。その氏は松尾なりけり年また四十の老をまたず武陵の深川に世を遁れて世に芭蕉の翁とは人のもてはやしたる名なるべし。道はつとめて今日の変化をしり、俳諧に遊びて行脚の便を求むというべし。されば松島は明ぼのの花に笑ひ象潟はゆふべの雨と泣とこそ。富士吉野の名に対して吾に一字の作なしとは古をはばかり今をおしふる辞にぞ漂泊すでに廿とせの秋くれて難波の浦に世を見はてけむ。その頃は神無月の中の二日なりけり。さるを湖水のほとりにその魂をとどめて彼木曽寺の苔の下に千歳の名は朽ざらまし。東花坊ここに此碑を建る事は頓阿西行に法縁をむすびて道に七字のこころを伝ふべきと也」

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