| 本所相生二丁目、現在の千歳橋と塩原橋どの中間、両国二丁目一番あたりで塩原太助が薪炭商を営んでいたので、それにちなんで名付けられました。 太助については講談や浪曲で世に広く紹介されているので、年輩の方々はよく御存知のことと思います。 さて、太助−講談等では多助は、小石川茗荷谷(現文京区)で寛保元年(一七四一)三月一六日に生まれました。故あって上州下仁田村小高明神の森に捨てられましたが、その村の旧家である塩原角左衛門にひろわれ、その子として育てられました。しかし、一六才の時義母の話をかげで聞いてわが身の上を知り、江戸に出て独立する決心をします。その時義父の銭別一○両をもとでにして薪炭商を始め、天性の商才と経済に対する能力とによって財をなしました。当時の落首で「本所に過ぎたるものが二つあり、津軽大名炭屋塩原」とはやされるまでになりました。 なお、戦後しばらくは、塩原太助の店のあったという所に、塩原商店という薪炭商がありましたが、血縁的にはなんのゆかりもないのですが、同姓の故で、何とか薪炭商を続けていきたいと考えられたそうです。しかし燃料革命で、炭や薪を使う家がほとんどなくなってしまったので、商売をやめられたということです。 なおこの塩原橋の架かっている竪川は、本所開拓の時につくられた堀割です。大横川、横十間用、北十間用などともに江戸時代から大切な交通運輸の役割をはたしてきました。今ほとんどその機能を失い、一部は埋めたてられようとしています。四つ目の牡丹に堅川を猪牙舟で通ったのは、もう昔語りになりました。 |
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