| 龍之介は、明治二五年二八九二)三月一日、東京市京橋区入船町八丁目一番地に、牛乳搾取販売業耕牧舎を営む新原敏之、ふくの長男として生まれました。辰年辰月辰日の辰刻に生まれたのにちなんで、龍之介と命名されたといいます。生後七ケ月に母発狂のため、ふくの長兄芥川道章に引き取られました。道章は本所区小泉町一五番地(現墨田区両国三丁目〉に住んでいました。芥川家は、代々奥お坊主をつとめた江戸時代から続く旧家でした。 芥川家では、文学美術を好み、道章は俳句や盆栽に親しむどともに南画をたしなみ、一家をあげて一中節を習い、歌舞伎をよくみに出かけるなど、下町的な江戸趣味の濃い家庭でした。 五才で回向院に隣接していた江東尋常小学校付属幼推園に入園、翌年、同小学校に入学しました。龍之介の本に対する情熱は小学校時代にはじまり、家にあった草双紙、殊に「西遊記」の翻案「金昆羅利生記」や帝国文庫の「水滸伝」などを愛読しました。また、近所の貸本屋をはじめ、大橋図書館帝国図書館などへ通い、馬琴・一九・近松などの江戸文学や泉鏡花、徳富虜花、尾崎紅葉などの作品を多読しています。 一○才の四月の頃から回覧雑誌「日の出界」を発刊、彼は表紙画やカット等をかいて、自ら編集にあたり、渓水・龍雨などの筆名で多くの文章をかいています。 一九○五年東京府立三中(現両国高校)に入学。翌年四月頃から大島敏夫、野口真造などと回覧雑誌「流星」を発刊「廿年後之戦争」などを書いています。学校にあってはいわゆる模範生で、驚くばかりの秀才で、英語は特にすぐれ、漢文にも興味をもち、七言絶句の漢詩などを作っていたといいます。一方で、辞書片手に、イプセン、アナトール・フランスなどの外国文学も読みました。 一九一○年九月第一高等学校第一部乙類に無試験入学を許されました。芥川家は府下内藤新宿二丁目七一番地(現新宿)の耕牧舎牧場の一隅にあった敏之の持家へ移転しました。 一九一三年九月、東京帝国大学イギリス文学科入学、一九一五年、芥川龍之介の著名で、はじめて「松江印象記」をかき、「羅生門」を発表しましたが世評には上りませんでした。一二月初旬、「激石山房」の木曜会に出席、以後漱石の門に入ります。 翌年東大卒。一一月横須賀の海軍機関学校へ英語の教授嘱託として就職。一○月、当時文壇の登龍門と言われた中央公論に「手巾」を発表。「この頃僕も文壇へ入籍届だけは出せました」というくらいになります。 一九二七年三月二八日斎藤茂吉にあて「この頃又半透明なる歯車あまた右の眼の視野に回転することあり、或は尊台の病院の中に半生を終ることと相成るべき乎。(中略)唯今の小生に欲しきものは第一に動物的エネルギー、第二に動物的エネルギーのみ」と書簡を送っています。五月末、宇野浩二発狂、広津和郎等とその面倒をみましたが、彼の発狂は龍之介にとってショックでした。七月二三日「続西方の人」を書き上げ、夜半に「自嘲 水涕や鼻の先だけ暮れ残る」の短冊を、翌朝下島勲に渡してくれるよう伯母ふきに依頼し、二四日未明、服毒自殺。枕許には聖書華置かれており、文夫人、子どもたちなどにあてた遺書があり、遺書の一つ「或る旧友へ送る手記」が久米によって発表されました。染井の慈眼寺(豊島区五丁目)に葬り、命日には毎年河童忌が営まれます。彼が河童の絵を好んでかいたことによるのでしょう、この名があります。 彼の作風には、メリメ、アナトール・フランスなど外国作家の影響のほか、森鴎外や漱石の感化も強く、日本の古典ことに今昔物語やキリシタン文学など、未開拓の方面から素材を発見し、それに近代的主題、特にエゴイズムを中心とする人間性を見るとともに、それを乗りこえる殉教的感激、芸術至上主義的情熱に興味を寄せました。一九二○年頃から現代生活にも取材しています。 |
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