| 明暦大火の大災害の教訓を生かして幕府がそれまでの政策を大きく変え、両国橋を架けたのが万治二年。本所開拓事業の進展につれて交通の要衝として両国橋界隈は大繁盛。橋の西は両国広小路といわれ、大衆演劇、大道講釈、落語、娘義太夫などが軒を並ベ、腰掛け茶屋などが多くありました。一方、東両国は別に向う両国ともいわれ、俗にこり場といいました。大山詣りの者たちが、橋のたもとで水ごりを取ってから出かけたからです。ここには見世物小屋が軒を並ベ、それにつれて食べ物の屋台が並び、料理屋も繁盛しました。山くじら・ももんじいの豊田屋、しゃもの坊主しゃもがいまだにその面影を残しています。 この賑いを背景に生まれたのが与兵衛ずし「花屋」です。与兵衛は、はじめ蔵前の札差板倉屋の手代でした。やがてお店風の風流が身にしみ、それがこうじて不相応なぜいたくをして身代をつぶし、いろいろ商売がえしてもうまくいかず、本所横網の裏店にひっそくしていました。しかし、道楽中に覚えた味から握りのこはだずしを考案しました。それをおかもちに入れて夜の繁華街を売り歩きましたが、こはだにわさびをだかせたにぎりずしの味が受けて評判になり飛ぶように売れました。やがて、屋台を出しました。そして当時ぜいたくと言われた山本山の茶を添えたので、またたくうちに評判になり、ついに花屋という店をもつまでになりました。 矢田挿雲の「江戸から東京ヘ」には次のよう書かれています。 「一度与兵衛鮨をつまんだものは、親指と食指とに垂れた醤油を、指の股の方から逆になめあげて「こいつは乙だ」と首をふらずにはいなかった。与兵衛が歯を喰いしばって握っても握っても、あとからあとから注文がきた。毎晩子(午前零時)に臥し、寅(午前四時)に起きて、終日握りずしを握ったけれども、追っつかないほどの繁昌で………略………」 また当時の狂歌にもこんなふうに詠まれています。「鯛ひらめいつも風味は与兵衛ずし買い手は店に待って折詰」 今も日本の味とされている握り鮨が、本所を発祥の地とすることを知る人は、意外に少ないのではないでしょうか。 花屋は昭和五年に廃業、今はその跡を偲ぶよすがもありません。 |
▼このページはプリントアウトを想定して作ってあります。おでかけの際はプリントしてお持ち頂くと便利です。 |