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下町音楽夜話

◆第226曲◆ 歴史は語る
2006.10.21
何やら物騒な国際情勢になってきた。隣国で長距離弾道ミサイルの発射実験や核実験をやられては、やはり落ち着いて音楽など聴いてはいられないという気にもなる。しかし、そこは30年以上も音楽を聴き続けて、音楽が生活そのものになっている筋金入りの音楽バカなので、こういう時こそ、平和を希求する音楽だ、などと嘯いている。日本が地理的に危険な位置関係にあるということは重々承知しているが、その割には世界に類をみない平和な時代が60年以上も続いているのだから、この国の政治も捨てたものではない。一方で、平和が大事だ、戦争はよくないとアタマではわかっていても、結局かみ合わない議論が続くだけで、何ら根本解決をみない国連のふがいなさにも腹がたってくる。文化の違いや相互理解不足という次元の話ではないのだから、どこかしらで狂人の暴走を食い止めることが世界平和(結局、民主主義による数の暴力なのだろうか?)に一歩でも近づく道なのではなかろうか?他の選択肢があるとは、とても思えない。結局、それは歴史が語っているようにも思う。

さて音楽の話に戻そう。同じ歴史でも、ポピュラー・ミュージックの歴史が、現在我々に教えてくれることは、あまりに大きくて簡単には理解できないが、結局進化し続けるものは進化し続けた上で現在形を示し、ある時点で進化を止めたものは、その時代の歴史的遺産としての価値しかなくなってしまう。ここ百年程度の急激な人々の生活の変化で、あらゆるものがグローバル化し、ボーダーレス化したことで、音楽も何らか融合したものしかポピュラーな存在ではいられなくなり、純粋な形態を維持するのは、民族音楽だけになってしまったのだろうか?たまにCDショップに足を運ぶと馴染みのないジャンル分けがされていて、戸惑ってしまう。ここまで細分化する必要が本当にあるのだろうかと、疑問に思わないですむことはあり得ない。

例えば、ジャズが偉大なるポピュラー・ミュージックの一形態であることは、全く否定できない事実であろうが、そのジャズは猛烈に進化し続けている。ウィントン・マルサリスなどのように、オーオドックスな伝統的手法にのっとったスタイルを継承し、現代に紹介する伝道師のような存在もあるが、それすらニュー・オリンズ・スタイルに回帰(進化や変化ではない)して、後ろ向きな活動しかしていないように思われる。上手ければそれでいいというものではないし、現在形でどう解釈し、どう提示するかが大事なのであって、過去のある時点のスタイルやある地域の音楽スタイルを再現してみせることは、面白くはあっても、オリジナリティが欠けたもの真似に過ぎないではないか。結局博物館のイヴェント的なものであり、ポピュラー・ミュージックではなくなってしまった。

一方でウィントンの兄、ブランフォード・マルサリスは、どういうわけか、その対極にある。1980年代から、スティングのバンドに加入してポピュラー・ミュージックの王道で活動し、またバックショット・ル・フォンクという変名で、時代の最先端を行くDJを起用し、デジタルな音楽をやってみせたりする。伝統的なスタイルのジャズ・スタンダード・アルバムを作っても、どこかしら現代的な響きが彼のサックスには感じられ、彼なりの現代的解釈を楽しむことができる。自分にとっては、現代のジャズを代表する、大好きなミュージシャンの一人と言えよう。ウィントンも当初は随分楽しませてもらったが、最近は新作を買うどころか、聴くことすらなくなってしまった。DNAレベルで才能のあるミュージシャンだと言われる人間だけに、残念でならない。

自分は、スティングのアルバムでブランフォード・マルサリスに興味を持ち、彼のオリジナルに関しては、まず1988年の「トリオ・ジーピー」を購入した。この時点で、もうこの人間の素晴らしさにまいってしまっていた。次に遡って「ローヤル・ガーデン・ブルース」を購入して、もう完全にノックアウトされた。その後いろいろ買い集めては聴き漁っていた1990年、スパイク・リー監督の名画「モ・ベター・ブルース」が公開された。結局公開時に劇場でみることはできなかったが、直ぐにサントラ盤を購入し、シンダ・ウィリアムズの素晴らしいヴォーカルをフィーチャーした「ハーレム・ブルース」に涙したものだ。いまだに10指に数え上げる愛聴曲である。

さて、先月、ブランフォード・マルサリスのニュー・アルバム「ブラッグタウン」がリリースされた。相変わらず、のメンツで、気持ちいいほどに吹ききっている彼のサックスは、既にコルトレーンのレベルに達しているのかと思いたくなるほどだ。ストレート・アヘッドなジャズとはいえ、これは決して後ろ向きなものではない。フリーな要素がむしろ懐かしく思えてしまうほど、進化した現代的なジャズに仕上がっている。ジェフ・テイン・ワッツのパワフル極まりないドラムスは、ここでは必須の要素であろう。また、ジョーイ・カルデラッツォのピアノは、あくまでフリーに徹し、何ものにも迎合しない。このメンバーがあってこその、現代的な響きをもったジャズと成りえているのかも知れないが、やはりブランフォード・マルサリスの熱いハートと相俟って、この作品のレベルをより一層高みに持ち上げている。

惜しむらくは、ベースのエリック・レヴィスの個性があまり感じられないことである。もしここに、クリスチャン・マクブライドあたりの、少々やんちゃな性格のベーシストが参加していたなら、この作品、歴史に残る名盤に挙げられるものになったのではとも思う。ただ、そこは人間関係が色濃く反映する音楽であるから、無理な要求なのかも知れない。思うに、この盤に参加しているメンバーは、みんな人がよさそうだ。そういった意味では、バランスは最高レベルなのだが、刺激が少ないと言うべきかも知れない。

歴史的にみて、名盤といわれるものは、マイルス・デイヴィスやオーネット・コールマン、最近ではパット・メセニーなど強烈な個性によるリーダーシップが発揮されたものか、ブルーノートの諸作品のように、強烈な個性がぶつかりあって火花を散らしているようなものに多いように思う。さもなくば、バランスを重視したものになるのだろうが、むしろこういったもので名盤は少ないように思う。この世界では、歴史を変えてしまうほどの強烈な個性が望まれるのかも知れないが、それはあくまで平和で文化的な音楽のはなしであって、政治の世界では、あまり強烈な個性が暴走するようなことは好ましくないのだろう。そう、自分などがあえて言うことでもない、全て歴史が語っているではないか。

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