江東活學大學

第14回

<プロフィール>
昭和5年墨田区に5人兄弟の長女として生まれる。現在は江東区在住。
『女子挺身隊・疎開・戦争の話』
近藤 久子さん

講演

こんにちは。
私は墨田区の小梅町で生まれました。兄弟は5人です。兄と私が小学校入学が近づいてきましたので浅草の田原町に引越しをいたしました。今の田原小学校のすぐ側です。二階建ての四部屋の家です。そこで両親を入れまして7人家族が暮らしていました。父は郵便局に勤めるサラリーマンで簡易保険の仕事をしていました。優しい父で、私は父に愛されて育って大変幸せでした。母はたいへん厳しい人でした。でも子供が5人もいたら母親は大変だということを長女として身にしみていました。母は和裁が得意で私の着物はもちろん家族みんなの着物、編み物、夏のワンピースなど全て縫って作ってくれました。昭和14年12月、戦争が身近になったと感じました。
父は当時39歳でした。日中戦争のため日本軍が中国に行っておりますので、日本から郵便物が大量に行くんですね。それ逓信省から各部隊への仕分け発送が父の仕事です。私は父によく手紙を出しました。そしてその手紙には軍事郵便等はんこがありましてそれを押しますと切手を貼らなくとも行くんです。
昭和16年12月8日のことですが、私は小学校六年生でした。
田原小学校に登校して朝礼が始まる前に校庭で遊んでいましたところ、突然大きなボリュームのラジオ放送が流れてきました。それは太平洋戦争が始まったという事で、その時ハワイの真珠湾攻撃でアメリカの軍艦が何隻も破壊されたというものでした。その時は戦争の怖さも何も私はわかりませんでした。その後女学校に入学して三年生のときに女子挺身隊として軍事工場に派遣されました。昭和20年3月9日まで働きました。女子挺身隊として軍事工場に行く前に腕章を自分で作ったんですね。その腕章に女子挺身隊と書くのですがそれを父が書いてくれました。
中国から父が二年くらいで無事に帰って来ていましたので一緒に暮らしていました。私は女子挺身隊として新小岩の工場ではかばんを作っていました。もちろん軍隊で使うものです。かばんを形作るときねじを使いますが太目の釘のようなものを使いまして反対側で叩いて潰すんですね。そんな仕事を担当していました。出来上がったかばんをラッカーでカーキ色に染めました。吹き付けですね。その吹きつけ塗装の場所は部屋が違っておりまして、塗装は塗料をシンナーで薄めて吹き付けるのですが、シンナーを吸いすぎてその係りをしていた私の友人は喉をやられて、まだ若いのに声がどら声になってしまいました。
昭和17年頃父は中国から帰ってきましたが、しばらくしてマラリヤにかかっているのがわかりました。夏なのに寒い寒いと言うのです。夏なのに全身が震えています。いくら私たちが押さえつけても止まらないのですね。冬の布団を掛けます。中国で感染したものと思います。父のいた場所は南京というところ昔は南シナと言っていました。シナというのは中国人にとって侮辱の言葉なのですね。だからシナ蕎麦などと看板が日本にもかかっていますがあれは侮辱の言葉です。
その後、牛込の陸軍病院に入院しまして、治療をしてもらって退院しました。父はその後昭和21年にがんを発病して翌年4月16日に死亡しました。46歳でした。

●東京大空襲 火は風を呼び●
話は前後しますが昭和19年ごろ日本国内の食料が不足してきまして、ご飯はそろそろおかゆに変わってきました。そしてある時、台所でご飯を炊いている母を見ましたら、母が紙を燃やしているのですね。普通はガスで炊くのですが、それで私はガスコンロをひねって火をつけてみたのですが、かすかな炎しかありません。これではご飯が炊けません。
そして、そのうちに一番下の弟が亡くなりました。5歳でした。何故死んだのか今でも解かりません。たったのニ、三日で死んでしまいました。母がお医者さんを呼びに行きましたが来てくれません。国内には藪医者しか残っていなかったと言う人もいます。
昭和20年3月10日未明に東京大空襲となりますが、当時空襲が毎晩ではありませんがよくありましたので、寝巻きに着替えることをしませんでした。いつでも逃げる準備をしていました。焼夷弾が落とされるときは花火のようにきれいでした。でも我が家が焼けるときはそれどころではありません。
夜遅くなって空襲警報が鳴ってしばらくして、兄が近所を見回っていて家に帰ってくるなり言いました。「もう危ないから田原小学校に逃げたほうがいい」と。ところが外に行って驚いてしまいました。ものすごい風なのです。火は風を呼ぶといいます。それも火の粉と一緒に横殴りの風です。台風の風に火の粉がたくさん混ざった、といったらいいでしょうか。それに足をとられそうになりながら防空頭巾をかぶったその上に敷布団を一枚、兄がかぶせてくれました。それで小学校に逃げました。そして兄と父は家と学校を往復して布団やら何やらを運んでいました。
ところがその晩、小学校は鉄筋コンクリート三階建てなのですが、屋上に爆弾が落ちたと男の人たちがバケツリレーで火を消したりしました。学校の周りは全部火の海です。私の家に爆弾は落ちませんでしたが周りからの火の手で燃えてしまったのです。消防車は一台も来ませんでした。多分消防署も消防車燃えたと思います。
空襲警報は解除になりましたが火は燃え続けていました。やがて、それまでは校舎の入り口の玄関のところにいたのですが、皆そろそろと体育館のほうに移動して寝ることにしました。体育館の窓ガラス越しに火が見えます。道路の向こうに商店があるのですが、その燃える火がこのガラスを越えていつこの中に入ってくるのか心配でした。
でもそれよりも煙が怖いことがやがてわかりました。煙であの広い体育館の中は座っていられませんでした。息が苦しくって段々と横になり、床すれすれの空気、そこはすれすれですが煙が来ないのですね。皆そこに横になりました。その床すれすれの空気が私たちを助けてくれたのです。やがて長い夜が明けて朝になりました。母は家から持ってきたオカマで、燃え残っている熾き火でご飯を炊きました。
兄が母の実家に知らせにいこうということになりました。電車は動いていませんので歩きです。埼玉の草加市です。知らせに行った兄について母の実家の伯父が一緒に来てくれまして、リヤカーに家財道具を乗せて埼玉の伯父の家に身を寄せて世話になりました。
その間、途中も私は死んだ人を一人も見ていないのです。だから田原町の辺りで死んだ人はいなかったのではないかと思います。浅草の東武デパートの脇の道を歩いていくのですが、デパートのガラスというガラスは全部なくて向こう側が見えるのです。そのくらい火の勢いは強かったのですね。親戚を頼るあての無い人は何日もあの小学校にいたのではないでしょうか。
母の実家に着いてから兄弟それぞれの学校に転校して新しい生活が始まりました。私も埼玉の女学校に転校しましたが、教室は工場になっていました。軍人の革靴の製造です。そこでの私の仕事は靴になる最初の色あわせという軽い仕事でした。靴は前と後ろの組み合わせで作ります。作っている間にも空襲警報のサイレンがなります。全員学校を出て近くの森の中に避難をするのですね。母の実家のすぐ前は田んぼ続きで、その先に東武鉄道が走っています。その先に高射砲陣地がいつの間にか作られていたのですね。夜、空襲があるときその高射砲を打つドカンドカンという音が大きくてたまりませんでした。
そして8月15日敗戦。ラジオ放送を聞きましたが、天皇陛下の言葉がよく聞こえませんでした。戦争が終わっても食料難で私たちはなかなかおなかいっぱい食べることができませんでした。栄養失調になりかかっていたのです。母の実家にいつまでも世話になっているわけにもいかないのですが、でも東京は焼け野原でいつになったら家が建つのか分かりません。
父が亡くなってから日暮里に小さな家を建てて暮らすことになりました。昭和23年3月学校を卒業。ある生命保険会社に就職をしました。当時私の初任給は5000円くらいでした。あるとき会社の同僚が私に「あなたは木の家に住んでいるからいいわねぇ」と言われたんですね。最初は意味が解かりませんでした。当時戦争が終わったのにまだ防空壕に住んでいた人が多くいたそうです。
その後、兄が肺結核になって寝たきりになり、当時この病気になる人は多く食糧難住宅難はずっと続いていました。一ドル360円。貿易赤字の増加。今では考えられません。外国から食糧を買いたくても一ドル360円ではどうにもなりません。

●機銃掃射●
これからは私の夫の体験した話をしてみたいと思います。
昭和20年3月10日の深川で夫が大空襲にあった時、夫はまだ13歳くらいでした。母と妹と3人で逃げたそうです。深川には川が多いそうですが、その川のほとりに一晩中いたそうです。そして逃げてきた他所の人が、火が熱いので川に飛び込むのだそうです。でも夫の母は関東大震災を経験しているので子供に「川には絶対に入ってはいけない」と繰り返し言っていたそうです。何故川に入ってはいけないのでしょうか。当時三月ですよね。気温は10度くらい。川に入ると体温を奪われてしまうんですよね。そうすると体温が下がると眠くなる。そうすると人間は死んでしまいます。
その後千葉県に土地を借りて家を建ててあったので移り住みましたが、あるとき田んぼ道を歩いているとアメリカの飛行機が飛んできて機銃掃射をしたそうです。稲を刈ったあとの田んぼです。それをよけようとすると飛行機はまた、くるっと回ってきて、打ってきたそうです。どうしてそれをよけられたのか夫に聞いてみました。射程距離に入ってきた時に右か左に向きを変えるのです。そうすると機関銃の弾が自分からそれて田んぼに打ち込まれて行ったそうです。非常に怖かったそうで。それが何度も繰り返されたといっていました。米軍機は東京空襲が終わると房総半島を伝わって航空母艦に帰っていくのですがそのときに持っていた弾丸を残らず落としていくのだそうです。
戦争が終わった時点で私の心に残ったものは、政府は国民をあるときはだますのだ、ということでした。それまでは政府の言うことはいつも正しいものだと思っていました。新聞ラジオの報道など全部本当のことだと思っていました。でもそれが全部暴かれましたね。だから政府というのは国民をだますのだと子供心に感じました。だから私は選挙には必ず行きます。新聞も必ず読みます。
大体そのようなことです。ご静聴ありがとうございました。

(2003年11月14日収録)文責:室井朝子