江東活學大學

第10回

<プロフィール>
1949年、愛知県に生まれる。職業は保育ママ。1992年、悪性リンパ腫発病。手術及び抗がん剤治療を受ける。経過良好。趣味:エッセイを書くこと。2001年「第3回子供未来賞」で読売新聞社賞を受賞。主な著書『がん患者が共に生きるガイド』(2001年 緑風出版)
江東区在住。2児1猫を持つ。
『がん その後の生き方』
柚原 君子さん

講演

●がんその後の生き方●
今日は沢山お集まりいただきましてありがとうございます。がんのお話を少しさせていただきます。趣味は落語を聴くこと、文章を書くことです。42歳のとき発病しまして手術のあと抗がん剤治療をしました。がん以後、生きていくことの支えに趣味の文章に随分と助けられました。
闘病中、先行き希望を持たなければならないということで、『公募ガイド』を買ってきましてエッセイ募集に応募、そのあと発表があるまで待ちます。その期待して待つことが、がんを忘れさせてくれることになるんですね。また、書くことで、今を見つめなおす作業にもなります。書く事はがん以後の私の生活の中で大きなウエートを占めるようになりました。
去年の夏ごろに100枚ほど書いて見事に落選したものがありまして、落選文章で申し訳ないのですが、ちょっと日の目を見せてやりたいと思います。
今日のレジュメの初め「どういう思いで病院から退院してきたか」の部分のところで読んでみたいと思います。

―――ある賞の落選文章より―――

『私は平成4年に悪性リンパ腫を発病した。手術後、胸部およびすい臓の奥に転移が見られたので、厳しい抗がん剤治療を一年間受けた。私の入院した病棟では一週間に2,3人の割で患者が亡くなっていた。重篤な患者ほどナースセンターの前に集められ、その病室の戸は開け放され、中の会話も切羽詰った様子も外に丸聞こえであった。いよいよ危ないとなると、医師や看護婦は、ばたばたと廊下を走って駆けつけた。待合室の中でうろうろしていた家族も全員が呼び寄せられ、開け放された病室のベッドの足元には医師や看護婦や家族の足が何本も重なりあって、やがて死者と呼ばれるようになる患者を見守っている様子が分かった。しばらくの静寂のあとに死者を呼び戻す必死の呼びかけがあり、それに続く家族の号泣は廊下を曲がった先の病室にも聞こえるほどだった。
このようなことが一週間に二三度繰り返されるのである。『闘病』という死と直面する病と闘う人々にとっては、自分の不安のみならず病院内の他者の死をも疑似体験しなければならない。主治医や最新の医療水準に守られて病気は病理の部分に於いては治癒に近づいていくのだろうが、病院の中で暮らす精神状態を考慮すると病院そのものは患者にとって、実はとても過酷な環境につくられていると言えた。
私は入院中にそんな光景を幾度も見て、ともすれば死に引きずり込まれそうな予感におののき、そのたびに自分の気持ちを生のほうに向くよう、たとえ無理に捻じ曲げても向かせようとした。病そのものの戦いと共に、自分の中に生きていくための火を何とか消さない作業は、心身ともに衰弱している患者にとってかなりの重労働であった。最もそのくらいの精神的重労働に勝つことができなければ、病を乗り越える力も備わらないといえば言えなくもないが、死が当たり前の様に繰り返される病院の中は、医師が、いくら頑張ろうねと優しい言葉をかけてくれたとしても、冷たい氷水の中に放り込まれてじっと観察されているようなものだ、と私はいつも思っていた。
私はその冷たい氷水の中でつま先だってつかめるものがあったら何でもつかみたい心境だった。死への旅立ちを垣間見た日は特に、自分にいつその番が回ってくるのかと思うと不安であった。私の命の長さを握っている何者かに、私の命はこの後どのくらいあるのかと聴いてまわりたかった。
がんの告知でどん底に落ちていた私は、自分の体をもう一枚の皮が覆っているような、あるいはすでに死んでしまった自分を引きずっているような感覚の中で、絶望の淵はいつでものぞき込める目前にあった。中心静脈を引っこ抜けば、癌など何も知らなかった時に戻れそうな気がした。生きていこうという気力を奮い立たせても、病院内では周期的に崩れが来た。
―――中略―――
ずっと生きると思っていた私の胸の中の計画表にはたくさんの事柄が書き記してあった。
突然のがん宣告で遣り残したことが余りにも多かったから、焦燥感と絶望感と何者かに対する怒りとで私の内面は今にも崩壊しそうだった。ある日隣のベッドで患者が死んだ。朝の検温で看護婦の動きがあわただしくなり、すでに物言わない人を、検査に行きましょう、と声をかけて搬出していった。私は小さな悲鳴を上げた。枕もとのナースコールを押して、退院したい旨を告げた』。
―――――――――

このような精神状態で入院をしていた私だったんですけど、となりのベッドで患者さんが亡くなられたのを見た時、ここにいたら自分は駄目になると思って、退院をすると宣言をしました。退院許可が出ました。ヨレヨレの足と丸坊主になってしまった頭とで実社会に戻ってきました。

●違和感●
がん患者として世間に出てきたときの違和感についてお話をしたいと思います。
この違和感は予測のできないものでした。40キロ代の体重、髪の毛は治療のあとなので加藤登紀子さん顔負けのベリベリーショートカット。私は地域の中でがんを隠してはいませんでした。地域の小学生のバドミントンクラブでコーチをしていまして、当時そこが私に対して早く健康になって戻って来いというエールを一番送ってくれていた団体でした。
「ヨレヨレでも来なければ駄目だよ。体育館の壁にもたれていていいから、子供たちも待っているからね」。そういわれて私は這ってでも行かないと、と体調のいいときは顔を出していました。このようにがんを隠さずに地域の中に入っていた私ですが、地域との違和感は相当なものがありました。どんな違和感だったかと言いますと、
★明日の幸せが約束されているような人々の群れ、活き活きと町を歩いている人々の群れ……私には確かな明日という約束がありません。それがねたましかった。がんさえしなければという思いがありました。
★健康組みが勝ちで病気組みが負け……。そのような思いが長くありました。これはリストラ組み、受験失敗組みをマイナーととらえるということと似ています。健康なときだったら、どんな状況でもそこに自分が幸せを見出したのであればいいんじゃないのかと、多分思うのでしょうが、病気をして負け組に入った自分がひどく情けない気持ちでした。
★生きる時間の物差しの違い……一般の健康な方と時間の物差しの違いが歴然とありました。たとえば、生きていないかもしれない、翌年の季節に着るためのバーゲンに参加することができない疎外感。
★受ける励ましが"好奇の眼"に見えて仕方がなかったです。死に行くかもしれない人と見られている、と感じました。大丈夫?と言われると、この人、私の何を探ろうとしているんだろうと、気持ちの中はすごくねじれていましたね。
★無神経な励ましというのもありました。「よかったわねぇ元気になって、私もこの間、乳がんの検査をしたんだけど、なんでもなかったの。それで主人が喜んじゃって、その日はすき焼きでパーティしちゃった」。それは"だから貴女も大丈夫よ""だから貴女も今生きていて良かったわよね。私も今生きていて良かったし"と、そこの共通項でつながるんですけど、私にしてみたら、私はがんで、その人は疑いだけでなんでもなかった、ということでひどく傷ついたりしてしまうんですね。
このような違和感というのは、健康な人ばかりがいる中で暮らしているわけですから、健康とはいえないのに、病院から切り離されている不安・がん患者として生きる情報のなさから来る不安であった、と今では思えます。
それでがんを抱えて生きていくためにはどのようにしたらいいかの模索を私なりにしまして、宇宙の気を集めるという事でトライアングルのような三角形のものを頭の上に乗せて、瞑想をして難病を治すところにも行きました。係りの男の人のズボンの裾が擦り切れていたんですね。それでこの集団のやっていることは違うなと思って辞めましたけども。
枇杷の葉がいいとなると公園で葉を採ってきたり、大きな笑い声がいいといわれればそれもやりました。また涙の成分の中にはストレスを排出するものがあるようで、泣きたいときは人目をはばからず泣くことも。それでも、健康色あふれている社会の中で孤立している現状には変わりがなくて、皆が楽しく騒いでいる時に私だけが暗い表情でいますと、迷惑がかかるし、辛い思いや再発の不安を訴えていく事ばかりもできない状況になりました。
時々再発の兆候が出ました。結果的にはどれもなんでもなかったのですがそのような不安なときは患者会の仲間に助けてもらいました。

●患者会とは●

三省堂さんから出ている「病気になったときすぐに役立つ相談窓口・患者会」。ここには1000箇所の患者会が出ています。患者会はがんに限らず、全国にたくさんあります。例えば心臓病の会、サリドマイドの会、森永砒素ミルクの患者を救う会とか。1980年代から90年代にかけてがん十カ年計画という時期に沢山のがん患者会ができました。この中ではがん患者が気持ちを分かち合って、がんから自立をしていくという非常に大きな命題のためにがん患者たちが集まっていたんですね。
患者会ではどんなことをするかというと、月に一度くらい定例会があって、まず自己紹介をします、がんを抱えた自分の状況を自分に確認してみることができます。自己紹介が一巡しますと、その日の体験発表というのがあります。ちゃんと話せない人は文章に書いたものを読んでもいいんですけれども、そのことで自分のがんを振り返り、会員の皆さんに、うん、うん、分かる。私もそうだったのよ、と同調してもらえるんですね。その同調には何が生まれるかというと、そこに仲間意識が芽生えます。
仲間とは非常に心地のよいものですね。がん患者たちも何の憂いも照れもなくがんの話が自然にできる。手術の後の辛さとか、乳がんの方々は温泉に行く勇気がないとか、いろいろなことを話せる。そうすると今まで心の中にこもっていたことがどんどんどんどん外に出て行くんです。解き放たれるというか。あけてもくれてもがんのことしか頭になかったことが、患者会の仲間に思い切り話せるということで。
一日の中でがんにとらわれていた時間が少なくなってだんだん開放されていく。困難を抱えている人たちが集まっているグループの良さというものは、突然突きつけられた恐怖や戸惑いにどう向き合っていくかという、"向き合い方の模倣"というのでしょうか。それから語り合い、聞きあいのカウンセリング。それで気持ちの共有を図りながらそれを何度も繰り返していくことで、そのことから解放されていくことができるわけですね。健康な社会から弾き飛ばされてしまったと疎外感・孤独感を仲間同士で乗り越えていくメリットが、患者会にはあると思えます。
患者会はがんから自立をしていくためには非常にいいところではないかと思います。厳密にはある意味、死を垣間見てしまうこともあるのでいいとばかりも言えないかもしれませんが。とても親しくさせていただいていたのに病院の中から「もうだめなのよ」と電話を頂いてしまうとかね。私は世間で違和感・疎外感を味わっている立場であるにもかかわらず、病院の中にいるか弱い声を出すしかない電話の人にどのように声をかけていいのかわからない。矛盾をしている話です。少し元気になっている私が再発を抱えて悲しんでいる人に声がかけられない。世間で健康色にある人も、がんの人に対して、こういう風に声がかけられらないんだなあという学びも、患者会ではしました。
患者として患者会の居心地の良さをホームベースとして自分の気持ちを立て直すことのできた5年半でした。

●地域の中で●
がんから自立し始めて患者会ばかりに依存することなく地域の中で過ごす時間も多くなって、患者会を卒業しました。そのあとの一年半で、患者会でいかに立ち直ったかとのお知らせをしたくて『がん患者が共に生きるガイド』という本を緑風出版さんのほうから出させていただきました。生き辛かったら患者会があるよ。一緒に生きていこうよ、と。がん以後に自分に与えられた仕事だとの思いで必死で書きました。図書館のほうにありますので借りてください。

●がんにもメリットがある●
それから最後ですがメリットとまとめを。
世間に対して持った疎外感・孤独感というのは7.8年経って思い返してみると、病気を嫌っているように見えた社会だけど、実は健康であるがゆえに人の弱さに気がつかなかっただけのことだと思います。自分だって他者の困難を思いやれなかったこともあるわけで、そう思えば疎外感や孤独感を乗り越えていくのは、誰でもない自分自身である、と分かりまして、それが本当にがんから自立をした第一歩になりました。
がんになったメリットですが、人はいつか必ず死ぬとわかりましたから、今を大事にしています。今の一瞬を本当に大事にしています。それからまず自分が一番幸せな気分になっていなければいけませんので、割とヘラヘラと笑っていることが多いですね。結構悲しいこともあるのですが何とか笑っていることにしています。それから家族の絆が強くなりました。がんは恐ろしいことかもしれませんが探せばメリットはあります。ならなければそれに越したことはありません。でもご家族の方、友人の方がなっていらっしゃる場合は宜しくフォローをしてあげてください。
今日はありがとうございました。


(2003年6月12日収録)文責:室井朝子