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下町の顔
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★お父さんのやられている仕事をずっと見ていらしたんですね。
うん、うちの親父はね、朝の5時頃に起きて夜は11時か12時まで仕事。正月は元旦だけ休んで、もう2日から仕事をしている。だからお得意さんの年始まわりは、大工さん、建具屋さん、家具屋さん、300軒くらいあって、小学校を卒業するかしないかくらいから私がやっていましたね。
親父はずっと仕事をしている。うちの親父は偉いなあって思いました。

★お父さんはいつ亡くなられたんですか?
私が21才の時です。
その後、彫刻師しか自分の生活する道はないと私は仕事を続けたんだけど、幸いにして江東区というところは、その当時は建具屋さんとか家具屋さんとかが、路地のどこに行っても一軒や二軒あったんですよ。ここは霊岸町って言ったけど、清澄町のほうが中大工、裏大工って、みんな大工町って言ったくらい。
昔はそれだけ仕事があったんですよね。

作品が作られる刀の数々
★仕事はあったとしても教えてもらう師匠はお亡くなりになってしまっているわけでしょ、その苦労は大変だったのではないですか?
まあ結構苦労はしましたね。ただうちは祖父の代から彫刻をやって東京の彫刻の業界には相当貢献していましたし、後藤派というのを継いでいましたから、私がどこに行っても深川の後藤さんと言われてかわいがってもらいましたね。

★そうするとそのあとは自分で?それともまたどこかに弟子入りに?
いや弟子には入りませんでした。親父の友達にわからないところは教えてもらったりしてね。ただ日本画や彫塑の勉強はしましたね。
でも最初にお話したけど、親父は仕事一筋の人だったから、職人に彫刻させる仕事の絵とか型の段取りは、すべて師匠である親父がやってたんですよ。
そして新しい作品の型やデザインは親父が絵を描くけれど、古くからある型のものとか応用される型は、私が描いて職人にやらせていました。
だから私が跡を継いだとき、若かったけどすでに彫刻の基礎のようなものはやっていたことになるんですね。
兵隊から帰ったのが21年で、その後に鹿島建設から最高裁判所の内装をやってくれいないかという話があった時もやりましたね。24歳で。

★24歳という若さでは家の持つ歴史とか、最高裁の建築彫刻を手がけるというのは重圧があったんじゃないですか?
それはやはりありましたね。でも親父の代からの信用も技術もあったんでしょうし、私自身やる気でやりましたからね。

★最高裁に入ったことがないからわからないのですが、あの建物の何を作ったのですか?
旧最高裁ですが、天井廻り、梁、柱、壁面などの彫刻ですね。

★岸本さんがおやりになったということは、その道の人が一目見ると解かるものですか?
自分で言うのはなんですが、形そのものは私の形ですからわかると思いますよ。デザインや透かしとかもね。品川の海晏寺の書院。これなんか私だってすぐ解かると思いますよ。

★この辺りではどこに行くと岸本さんの作品と出会えますか?
そうですね。『ホテルニューオータニのトウールダルジャン』、『霞ヶ関の法務省赤レンガ棟』、それから『深川江戸資料館の飾り獅子』や『新木場駅大看板文字彫刻』、『森下文化センター聖観音立像。パネル彫刻』。それと回向院さんや国技館にもありますね。

★失敗というのはあるんですか?答えづらいでしょうが(笑)。
失敗というのは許されないですね(笑)。あることはあると言っていいかわからないけど、結局、この寸法だというのはないから。ちょっと削り込んだりとかね(笑)。

★ところで、たくさん受賞されていますね。受賞のときのお気持ちはどうだったですか?
うれしいですね。認められたというか、感激するというか。またその反面、責任があるというか。祖父と親父がやって私が21歳から引き継いできました。ですから祖父や親父のおかげということもありますね。

昔この辺りは大工町って言ったんだよ
★受賞は岸本さんの人生そのもののようですね。ご褒美のような。
まあ学力もないのですが、そのような運に恵まれてということですかな。

★この仕事の醍醐味はなんですか?
自分でこしらえていったものが、きれいに出来ていくその過程の喜びというのもありますが、先方さんが喜んで収めさせてくださること。それが一番かな。

3.『清澄白河』の名を
★それではちょっと違う話を。どんなお子さん時代でしたか?
私ですか。おとなしい子でしたよ。自分で自分のことをいうのもおかしいが。
はははは、おとなしいまじめな、少しまじめすぎて社会的にはちょっとね、融通がきかないところがあったと思う。もう少し悪坊主であっても良かったかなぁ。今思えばね(笑)。

★そういうのって今でも心に生きているのですかね。ずっとコツコツとやってこられたんでしょうねえ。
小学校四年生の頃からうちの跡を継ぐんだとやってましたからね。まじめに(笑)。お店に出てみんなの邪魔をしたりね。

★岸本さんは79歳ですよね。どうですか、下町というのは変わってきましたか?
この辺りは大工町って言われる土地でしたが、材木屋さんも建具屋さんも少なくなって最近は印刷屋さんばかりの町になりましたね。
人間関係なんかもね、私らの小さいころは黙って近所に上がりこんで遊んだりしたこともあったけれど、今他所の家に黙って上がりこむことはないですよね。まあでも、やはり近所で何かあったといえばお互いに助け合ったりしてはいますよ。そういう人情というかつきあいはまだまだありますね。町会の行事も助け合ってね。
けれどもこのあたりはこれからもっと変化していくと思いますよ。高層マンションが3本も4本も建築中でしょ。

★『清澄白河』駅が、半蔵門線と大江戸線のジョイント駅になりましたからね。
そうそう、半蔵門線が出来たとき、ここの駅名は本当は『清澄』になりそうだった。白河に出口があって何で清澄なんですか、白河という由緒ある地名を残さなければいけないってね。私が協議会の会長になって陳情書出して、『清澄白河』にしてもらったということもありましたね。

★では最後です。恒例になってるんですが座右の銘を。
「不動心」とか「愚公移山」というのが好きですね。「不動心」は自分が思ったことは最初から最後までやり遂げるということかな。「愚公移山」というのは、自分は愚かであるけれども人間が一所懸命仕事をしていると山でも移すことが出来る。だからまじめに一所懸命やっていればいいということですね。

★二つとも仕事につながっているということですね。
そういうことですかな。


かぐわしい木の香りに包まれての取材でした。芸術と美の探究との狭間で心を揺らしながらも、注文を貰って仕上げる職人魂が岸本さんの中心にキッカリとあって、木彫刻の知識が何もない私にも、作品の前では背筋がぴんと伸びるような気持ちでした。分厚い手を時々もみながら、ゆったりとお話される岸本さん。まるで温かい風が岸本さんのほうから吹いてくるようで、木の香りと共に癒された気持ちになって辞しました。
※2004年10月収録
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