下町探偵団ロゴ
下町探偵団ハンコ


トップぶらりグルメくらしイベント交通万談 リンク

下町の顔
FACE


2.黒子の立場で
★お祭りなんか各町会のこだわりがあるでしょうね。その辺りどう調整していくのですか?
お祭りの仕事は「やって合わず、やらして合わず」なんだよ。やる方だってかかっただけ貰うわけじゃない。町会でもって寄付が決まっていて上限があるわけで、鳶頭のほうにはこれだけしかあげられないよってね。たとえば100万もらっても150万に見えるように作る。町会のほうは予算でやってくる。寄付はある程度決まっているでしょ。鳶には2割なら2割と。だから1000万集まったね、じゃ200万ください。若い頃からね。そのバランス。パーセンテージ。

半纏
★この次はいくらとか?
いやいやこの次は当てにならない。三年後だから(笑)。町会長が「鳶頭、この次は予算出しますから」って。あのね、ここにも少し誤解があるんだよね。町内の鳶頭を頼まなければいけない、うちのほうも地域の行事だから協力しなければいけない、でも商売だから貰うものは貰わなければいけない。私らが寄付したらいけないわけじゃないですか。
結局ね、言葉遣いの悪いところがある。ここは鳶頭が仕切っている。とんでもない。仕切ってなんかいない。お祭りをするにあたってわれわれは黒子なんだよね。お仮屋を造って準備する。暗黙のうちの警備というものがある。旦那衆の下でわれわれがお手伝い。悪いやつがくれば我々のほうで排除する。皆さんが楽しくお祭りができるような環境作りをする。うん。それでいいんだよ。それがしっかりしている所か、していない所かの違いなんだよな。

★富岡八幡宮のお祭りなんですが、江東区のほうから見ると中央区の新川、箱崎だけポコッと氏子さんがあるような感じですよね。どうしてですか?
関東大震災までは、現在の新川二丁目は永代橋の西詰でそこが富岡八幡宮の宮元だったんですよ。『大川端』という町会だった。まあ要するに江戸初期、八幡様の由来にもあるように深川は浅瀬だった。家は無かったけど州はあった。そこにお参りに行くにはここから船で行かなければ行けない。お宮に行く出発点。だから江戸時代からずっと震災までは新川は宮元という提灯をつけていた。
私たち子供の自分は、ここから船に乗っかってお囃子付けて、隅田川を乗り切って深濱まで入っていって、そこから神輿を担いでお宮行って、御霊入れてもらって帰りは永代橋を渡って帰ってくるんだけどね。
だから古式で言えば、船でなければいかれないという儀式があった。橋がないという想定でね。深川は州なんだよね。ここから行かなきゃいけないんだよ本当は。それを言うと下を向いてしまう人多いけどね(笑)。

3.義理と人情とやせ我慢
★今と昔では新川は違いますか?
ここは中央区のはずれなんだよね。中央区は大通り筋だけが商人。日本橋、京橋、銀座とね。この新川辺りの土地に住む者は酒問屋が七割で他は兜町の人たちが遊んだ料亭と花柳界ですよ。残りがいくらでもない大工や魚屋や八百屋。それが戦前の形でしたね。
江戸八百八町と俗に言うけど、広い江戸の街には『代地』という町内があるんですよ。どこそこの代地とね。火事があるとたくさんの家が燃えてしまう。建て替える間、みんなでこっちに来ている。2年くらいでその町がまた復興するんだけど、こちらにいるときは何々代地と言って、それまで住んでいたところの名称がくるんだよね。江戸時代から大店は必ず代地を持っていたよね。おそらく霊巖島浜町だって向こうの浜町とつながりがあるわけ。今の江戸橋の郵便局、あそこの後ろは四日市。四日市は新川にもあったんだよね、昔。
でも災害があるたびに所有権がない人たちはいなくなっちゃうよね。

幼少時代の山口さん
★人情なんかはどうですか。薄れてきましたか?
長屋ってさぁ、学者の先生なんかは楽しかったって言うけど、楽しいわけないって言うの。みんな和気あいあいしてるって言うけど、壁一つで、便所なんて共同で一つ。しかも外にね。楽しいわけない。不自由。
ただね、私たちの家業は三代付き合う。ご隠居、当代、せがれ、お孫。全部つなぐ。そんでも、町内のしがらみってなくなっちゃったね。しょうゆがなければ隣に行けばあるってね。そんな時代もあったのにね。
我々につながっているのは、義理と人情とやせ我慢っていうのが残っているね。だけど今は義理と人情はいいけどやせ我慢ができない時代になっている。義理は冠婚葬祭があって3万もらえば3万返して、あるいは体で手伝えば義理が返せる。義理と人情は思いやりで何とかできる。でもやせ我慢ができない時代になっている。
俺が病気になったとき仲間が10万もって来てくれたけどあいつに10万の金があるわけがない。きっと女房質に入れて、あるいは何かごまかして持ってきてくれたんじゃないかというやせ我慢があるわけ。それを今度はこっちがあいつに何かあったら返さなければいけない。そういうことね。金を貸してくれって言われた時、明日の手形落とす時の金はあるが、あいつに金を貸して俺が不渡り出すか……でもそれが今できない。うちも金がいるからって。
だからオヤジが友達は持つな持つなって言ったの。友達を持ったら裏切れないぞって。
あとね、出たものは返ってこないと思えって。これは鉄則。それを友達と借用書だの担保だの連帯保証人だのって。これだったら銀行でしょ。
消防精神なんだよね。今、生コンを出して型枠に入れなければいけない。そこで火事が起きたら、このコンクリート駄目にしても火事場に行かなければいけない。それが一つの我慢。だから戦争中のうちのオヤジがそう。八丁堀の火を消せって。オヤジは行ってくるぞって。こっちだって焼夷弾落ちてるのに、てめえのうちが焼けているのに人のうちの火事消しに行ってくるぞって。そういうのがね、消防精神。大事なんだけどね。今の俺んちだって、せがれに言ったってなかなか理解はしにくいよ。「江戸の鳶、己を殺して公につくす」ってやつだよ。

★では最後の座右の銘を。
今さっき言ったように「今、今、今」なんだよね。
今日が過ぎれば明日は何とかなる。かっこよく言えば人の世は義理と人情とやせ我慢って言っているけどね、本当はそんなことはかっこだけになる。実際にはがまんはできないない時もある。これってことはないけどね。


大きな時代の流れを、『鳶』という仕事面から切り取って、それを巻物にして流してみせて戴いたような感覚が残りました。
灯明のついた神棚には、火消しで亡くなられた方の霊が供養されていました。江戸町火消しの纏が書かれた大きな屏風を背にして座られている山口さん。その脇の鴨居には粋な半纏がピシッと形よく衣文掛けに吊るされてありました。
緊張の取材でしたが、はしばしの江戸言葉や、上に立たれる方がかもし出される大様さに、なぜか自然に包まれていって、いつの間にか緊張感が安堵感に変わっていました。
山口さんは小さな頃、お父さんのご趣味でちょんまげを結わえさせられていらっしゃいました(右上写真)。もちろん他の子と違いましたが、全然恥ずかしくなかったそうです。くりくりした目のちょんまげの子どもが棒切れを持って下町の路地を飛び跳ねている……当時の下町の物音までが偲ばれそうな取材でした。
※2003年11月収録・取材協力(倉田一男)
<<前のページへ

江東区、墨田区、中央区、台東区のネットワークサイト